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砂漠の乙女

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: konann
目次

第六話

 半身を起してすぐ、見張った目が捉えたのは、見慣れた室内だった。テレビや机、必要最低限の家具が整然と並んだ四角い部屋。一人掛けのソファに埋もれるように座り込んで、呼吸を繰り返す。

 仰げば、切れかけの照明がチカチカと断続的に瞬いていた。部屋の隅に置いてある薄型テレビが、砂嵐を映してざぁざぁと荒々しいノイズを立てている。火照った頬にかかる髪を、古い扇風機から流れてくる涼風がさらった。

 ノイズの雨音。扇風機の暴風。電光の稲光。

 身体を硬直させた状態で、朦朧とする頭を回転させた。しばらくそうしていた。やがて深い息を吐きながら、再び柔らかいソファへ身を沈める。

 公園を出てからの記憶が無い。あの老人と話している時は不思議と意識がしっかりしていたのだが、やはり体内に染み込んだ酒の影響は大きい。また酩酊して、それでも何とか帰ってきたのだろう。

 全身が汗でべたつく。胃の奥で蠢(うごめ)く嘔吐感に顔を顰めた。

 片手で髪を掻き上げて、また、息を吐く。気分を変えようと、左方にあった窓へ目を遣った。昼間に干した洗濯物が、窓硝子の外で僅かに揺れていた。

 陰鬱な空だった。正しくは、雲だった。空に鉛が浮かんでいるようだ。

無数の鉛が、今にも街を押しつぶそうとしている。

「洗濯物、取り込まなきゃ」

呟きが白々しく響く。

重い身体を移動させて、私は窓を開いた。カラカラカラ、と響くのは軽い音。湿った空気が、私をすり抜けて室内へ流れ込む。夏草の清涼な香りがした。雨の気配が漂った。

今頃アイツはどこかで空を見上げて、一言、呟いているかもしれない。

「……誰の涙雨かな」

 アイツの台詞を予想して、口にして、笑う。微笑でも嘲笑でもなく、口元に貼り付けただけの空しい笑顔だった。咄嗟に無理して作り出したから綻んで、口の端が細かく震えていた。

 砂漠の乙女に準(なぞら)えらえた私がその言葉を口にすると、酷く滑稽な感じが否めなかった。感情のない女。情緒のない女。愛情もない女。それが、アイツの中の私。

 否定はできなかった。私は確かに砂漠の乙女だ。そう思ったから。
 愛してなんかいなかった。

だから、辛くもない。だから、悔しくもない。だから、この恋の結末に何も感じない。だから、何の後悔があるわけでもない。だから、不甲斐なかった自分に身悶えする必要も、ない。傷つく必要なんてない。

 悲しくなんかない。

――『汚れちゃうよ?』

――『悲しくはないのか』

――『動かなくなったんだけど』

――『恋人とか』

 ドロリとした。

――『愛していたんだろうさ』

 小人の、巨人の、怪物の、騎士の、最後に妖精……老人の声が耳に蘇る。

ハッとして、息を呑んだ。

 途端、心の中で流動し始めたものを、押しとどめようとした。止まれと強く念じる。それでも流動するものの勢いは依然変わらず、今度は止まれと、呟く。

 もうドロドロする必要なんて無い。さっぱりと冷静な心で綺麗に生き通せる。不安定な感情を抱いて腐ることはない。だって私には感情が無いから。私は砂漠の乙女だから。

 だから、止まれ。

――……え、涙雨が何かって?

 次いで蘇ったアイツの声に、ぐぅ、と喉が醜く鳴った。

 ドロドロする。ドロドロする。乾いた砂に澄んだ水が注がれて粘ついた泥になる。またドロリ。思考が堰を切って雪崩れてくる。埋もれた理性が息苦しさに喘いだ。

――えぇと、涙雨っていうのはね……

 怒涛の勢いで押し寄せるのは感情。

どこからか湧いた感情。

今まで押し込めていた感情。

夢の中で辿った記憶を想った。先ほどまで見ていたそれは、未だ鮮明に私の脳裏に焼き付いている。

老人の声と、別れ際のアイツの声と、私の心の声。

 ちゃんと気持ちを伝えられていたら、私がこんなに不甲斐なくなかったら、例えば、或いは。だけど、恰好つけて自分の感情にすら向き合わなかった私に、そんなことは出来なくて。けれど、もし一回でも、心に流動する苦しみに打ち勝って、素直に伝えることができていたなら、きっと。

 本当は、ずっと、あなたを。

――涙雨っていうのはね、言い伝えの一つ。

 俯いて、両の手で顔を覆った。顔が、喉の奥が、じっとりと熱かった。

 部屋から一歩踏み出し、視界を塞いだままベランダへ。

危うい音を立てたのは古びた床板か、寂びた心か。

欄干に激突して、そのまま前向きにぐったりとしな垂れかかる。

両腕がぎこちなく、錆びた手すりに絡まった。

――雨が降った時は、誰かがどこかで悲しくて泣いてるらしいよ。

 暗い空を仰ぐ。黒い雲。灰色の夜。べとつく風。私の心を包みこんでくれる、ぬるい静寂。

アイツも同じ空を見ているだろうか。もし見ていたら、きっとどこかで誰かが悲しんでる、なんて感傷に浸るに違いない。

その後で泣いている人の身の上を思い描いて、同情して、そうして再び空を仰ぐのだ。

あわよくば、伝わるだろうか。

――人の涙が雨に変わるんだって。

 乾いた肌が透明な珠を弾く。小刻みに痙攣する瞼をゆっくり閉じて、ゆっくり開けて、間もなく崩れるであろう空に揺れる視線を注いだ。

優しい夜の静寂は、さざめくノイズの中にやがて消えるだろう。

 ……あぁ、もうすぐ

――悲しくて涙すると、空も一緒に泣いてくれるんだ。



 雨が、降る。




(END)
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