第四話
――あれ、雨が降って来た。しまったなぁ、傘持ってきてないや。
――すごい勢い。これも誰かの涙雨だよ、きっと。そう思わない?
――……洗濯物、取り込まなきゃって?
――……うん。そうだね。
私達の会話がうまく噛み合ったことは、今までに何度あっただろうか。恐らく、片手で足りる回数だ。
私が極端に冷淡だったわけでも、彼が極端に夢見がちだったわけでもない。ただ、価値観が違うことは目に見えて明らかだった。それでも十年近くも付き合い続けてきたということは、互いの譲歩がうまい具合に機能していたか、もしくは……惰性、というやつか。
どちらにせよ、破綻してしまった今となってはどうでもいい話である。
例えば、どちらかに愛する気持ちがあれば、破綻せずに済んだかもしれない。しかし、別れを切り出したのはアイツで、私は私で何の感慨もなくそれを受け入れた。私達の間に感傷は起こらなかった。
私はアイツを愛していなかった。
――一人で大丈夫だよね?
……当たり前だ。
休憩がてら、公園のベンチに座り込む。先程ウイスキーを飲んでいた公園とは違い、こちらは手入れの行き届いた整然とした空間だった。遊具は充実しており、花壇には末枯(すが)れてはいるものの紫陽花が植わっている。
この公園を抜けて大通りを三分も行けば、やがて古びた二階建てのアパートが見えてくる。目と鼻の先に目的地を捉えたことで安堵して、一気に疲労感が押し寄せた。
座り込んで俯くと、再び視界が歪みだす。耳鳴りが木霊して、再び嘔吐を催した。
「ちょいと。どいておくれな」
頭を抱えていた私に声がかかる。気分の悪さに顔を顰めながら視線を遣れば、古めかしい衣服を纏(まと)った異質な風貌の老人が、目の前でゆったりと構えていた。生えっぱなしの白髪と白髭は何故かしっとりと濡れていて、電光の中で艶を湛えている。
未だアルコールが回っているとはいえ、幻覚を見るほどの酩酊からは既に脱していた。それでも、老人の一風変わった雰囲気に呑まれ、瞠目する。
「……泉の妖精?」
口走ってしまってから後悔。それと、自分でもわかるほど赤面した。
今度は老人が瞠目した。気恥ずかしくて視線を逸らすより先、老人は見開いていた目をゆっくりと三日月形に変化させる。
何の含みもない、子供のように純な微笑み。それを目にした瞬間、羞恥心や警戒心がすぅと薄れた。
「あぁ、そうだよ。妖精だよ。……と、言いたいところなんだけれどね。僕はただのホームレスだよ」
ホームレス、と復唱したところで気付く。私が下ろしている腰の下に、乾いた感触があることを。視線を下ろすと、それは若干茶ばんだ新聞紙。
「……ごめんなさい!」
このベンチが目の前の老人の住居だと気付いて、飛び退くようにして立ち上がった。やはりまだ意識がはっきりしていないらしい。ベンチ全面に新聞紙が敷いてあるというのに全く気が付かなかった。
老人は穏やかに笑ったまま、ベンチに腰を下ろす。
その傍ら、居た堪れない気分で佇んでいる私に、やがて老人は声をかけてきた。
「今日はいい一日だったんだよ。ちょっと収入があったからね、久々に銭湯へ行ったのさ」
艶めく白髭を撫でつけながら、老人は満足そうに鼻を鳴らした。はぁと気の抜けた返事をする私に不快な顔をするわけでもなく、老人は静々と続ける。
「あんたは……あんまり良い顔してないねぇ。嫌なことでもあったのかい」
心の中を覗きこまれたのかと少々ギョッとして、加えてあまり触れられたくない話題でもあったので顔を強張らせた。
が、すぐに平静を取り戻す。
確かに、顔は酒に浮腫(むく)んでいて、あんまり見れたものではないだろう。顔色も悪く見えるに違いない。気分の悪さに表情も曇りがち。暗闇でわかりにくくはあるが、右頬は醜く腫れあがっている。恐らく眉を読まれただけのこと。
当たり前のことに一々動揺する自分が、とても情けなかった。
「……まぁ、良い一日ではありませんでしたけど、別段悪い一日でもありませんでした」
「最近の若い者は何事に対しても曖昧でいかんなぁ」
「……でも、本当にそういう一日だったんです」
「そうかい? すごく嫌なことがあって腐ってるように見えるけどねぇ」
「そんなことない!」
鋭い音が、響いた。
ぽかんとした顔で、辺りをぐるりと見回してみても、公園には夜闇が沈殿しているだけ。誰もいない。
数秒して、その音は他ならない私自身の声だったと自覚し、先程以上に赤面した。今度こそ老人の顔を直視できず、首だけで俯いて地面を睨み付ける。
声を荒げたのは何年ぶりだろう。思うと同時に、あんなにまで熱くなった自分自身に混乱した。一瞬で頭に血が上り豹変した、その理由もわからない。
「そうかい」
カラカラと笑う老人に対し、私の顔は曇るばかりである。全身を巡るアルコールと、宵闇の中で見知らぬ老人と二人きりという異様なシチュエーションが、否が応でも私の心を乱した。
この場を離れた方がいいと感じた。今これ以上掻き乱されたら、どんな醜態を晒すかわかったものではない。
「お嬢さん」
私が行動を起こすより早く、老人がしわがれた声で呼びかけてきた。此処に満ちた静寂を割って、それは一際響く。聞こえなかったふりは、できそうにない。
私は視線だけ向けて応えた。電信柱が一つ、ベンチの横で佇んでいる。そこに取り付けられた電灯が降らせる電光は出来の悪いスポットライトのようだ。どこか冷たい感じのする白い光で、老人一人を煌々と照らしていた。
「嫌なことがあったんだね」
根拠のない、しかし確固たる断定に、今度こそ私は動揺を隠せなかった。
唇を開いては、息だけ発して、閉じる。その度に唇が乾いた音を立てて、思い出すのは数時間前。
「……今日の夕方」
口が勝手に動き始めた。ぎこちない動きだけれど、決して止まらない。
「振られたんです」
「彼氏に?」
「十年も付き合ってた彼氏に」
「それは悲しいなぁ」
「空しいの」
「どうして?」
「わからない」
「悲しくはないのかい」
「悲しくなんかない」
「どうして?」
「愛していなかったから」
「愛してたんだろうさ」
「愛していなかった」
「愛していたんだ」
断定。
最初こそ度胆を抜かれて呆然としていたが、何故だかその後躍起になって言葉を返す。
「私は、愛していなかった」
「どうして?」
「私は心が乾いているから」
「そうかい?」
「だから悲しくもない」
「そうかい?」
「アイツと並んでいる自分は変だった」
「どうして?」
「ドロドロしてて汚くて、私らしくなかった」
「そうかい」
「苦しかった」
「そうかい」
「ただ、今やけに空しいの」
「愛していたからだね」
「違う」
「違わない」
断定。
頭の中に色々な想いがぶちまけられて、回収しきれない。整理するために、想いを声に出して、一つずつ消化していく。それなのに、老人はそれをブチブチと無遠慮に潰してくる。
この人は、嫌だ。
私が拒絶したい言葉を投げつけてくる。
その全てを、否定しなくてはならない。
「お嬢さん」
呼びかけられてハッとする。いつの間にか、私の身体にも電光のスポットライトが降り注いでいた。そこでようやく、身を乗り出して必死に反論している自分に気付く。
夜の中で、私達二人がはっきりと照らし出された。
「感情が溢れてくるのは苦しいだろうさ」
ほんの少し、冷静さを取り戻したからだろうか。今度は老人に対して反論は浮かばなかった。むしろその言葉は、ストンと腹の底に落ちた。
「けれどそれを乗り越えないと、駄目だよ」
慈愛に満ちた、とでも言おうか。優しくて真っ直ぐな瞳。
その中心に、情けない顔をした私が映る。遠ざかりたくて、口を噤(つぐ)んで数歩、下がった。スポットライトの外へ出た。
言ったきり、老人はベンチに横になり、その身体に新聞紙をかけた。眠るつもりらしい。広々とした公園の一角で新聞紙一枚とは何とも心もとない気がするが、初夏の陽気だから特にこちらが心配する必要はないだろう。
私はといえば、しばらく黙していた。黙しながら、空を見上げた。
曇天。厚い雲が幾重にも重なって、今にも崩れ落ちてきそうな危うさを孕んでいる。夜が雲に染み込んで、暗い。
厚い雲を隔てた先に、星が煌めいているのだろう。確かに、あるのだろう。
けれど、届かない。届かなければ、意味はない。
私は想いを内側で煌めかせるだけで、アイツに届けようとはしなかった。
星明りが届かない。
「……さようなら」
首を静かに戻し、瞼を閉じている老人へ視線を戻す。
軽く一礼して、踵を返した。
「帰るのかい?」
「はい」
「一人で?」
「……はい」
「一人で大丈夫かい?」
「…………」
歩き出す。世界が歪んでいる。痛い。熟成された感情が血潮に乗って、全身を傷めつけながら駆け巡る。痛い、痛い、痛い。
公園の入り口まで来て、私は老人を振り返った。
ベンチに横になりピクリとも動かない。もう眠ってしまったのか。夜闇の中で唯一、電光に煌々と照らされる老人は、遠目からやけに神秘的に見えた。
もしかしたら本当に優しい妖精だったのかもしれないなと、真摯に思った。
――すごい勢い。これも誰かの涙雨だよ、きっと。そう思わない?
――……洗濯物、取り込まなきゃって?
――……うん。そうだね。
私達の会話がうまく噛み合ったことは、今までに何度あっただろうか。恐らく、片手で足りる回数だ。
私が極端に冷淡だったわけでも、彼が極端に夢見がちだったわけでもない。ただ、価値観が違うことは目に見えて明らかだった。それでも十年近くも付き合い続けてきたということは、互いの譲歩がうまい具合に機能していたか、もしくは……惰性、というやつか。
どちらにせよ、破綻してしまった今となってはどうでもいい話である。
例えば、どちらかに愛する気持ちがあれば、破綻せずに済んだかもしれない。しかし、別れを切り出したのはアイツで、私は私で何の感慨もなくそれを受け入れた。私達の間に感傷は起こらなかった。
私はアイツを愛していなかった。
――一人で大丈夫だよね?
……当たり前だ。
休憩がてら、公園のベンチに座り込む。先程ウイスキーを飲んでいた公園とは違い、こちらは手入れの行き届いた整然とした空間だった。遊具は充実しており、花壇には末枯(すが)れてはいるものの紫陽花が植わっている。
この公園を抜けて大通りを三分も行けば、やがて古びた二階建てのアパートが見えてくる。目と鼻の先に目的地を捉えたことで安堵して、一気に疲労感が押し寄せた。
座り込んで俯くと、再び視界が歪みだす。耳鳴りが木霊して、再び嘔吐を催した。
「ちょいと。どいておくれな」
頭を抱えていた私に声がかかる。気分の悪さに顔を顰めながら視線を遣れば、古めかしい衣服を纏(まと)った異質な風貌の老人が、目の前でゆったりと構えていた。生えっぱなしの白髪と白髭は何故かしっとりと濡れていて、電光の中で艶を湛えている。
未だアルコールが回っているとはいえ、幻覚を見るほどの酩酊からは既に脱していた。それでも、老人の一風変わった雰囲気に呑まれ、瞠目する。
「……泉の妖精?」
口走ってしまってから後悔。それと、自分でもわかるほど赤面した。
今度は老人が瞠目した。気恥ずかしくて視線を逸らすより先、老人は見開いていた目をゆっくりと三日月形に変化させる。
何の含みもない、子供のように純な微笑み。それを目にした瞬間、羞恥心や警戒心がすぅと薄れた。
「あぁ、そうだよ。妖精だよ。……と、言いたいところなんだけれどね。僕はただのホームレスだよ」
ホームレス、と復唱したところで気付く。私が下ろしている腰の下に、乾いた感触があることを。視線を下ろすと、それは若干茶ばんだ新聞紙。
「……ごめんなさい!」
このベンチが目の前の老人の住居だと気付いて、飛び退くようにして立ち上がった。やはりまだ意識がはっきりしていないらしい。ベンチ全面に新聞紙が敷いてあるというのに全く気が付かなかった。
老人は穏やかに笑ったまま、ベンチに腰を下ろす。
その傍ら、居た堪れない気分で佇んでいる私に、やがて老人は声をかけてきた。
「今日はいい一日だったんだよ。ちょっと収入があったからね、久々に銭湯へ行ったのさ」
艶めく白髭を撫でつけながら、老人は満足そうに鼻を鳴らした。はぁと気の抜けた返事をする私に不快な顔をするわけでもなく、老人は静々と続ける。
「あんたは……あんまり良い顔してないねぇ。嫌なことでもあったのかい」
心の中を覗きこまれたのかと少々ギョッとして、加えてあまり触れられたくない話題でもあったので顔を強張らせた。
が、すぐに平静を取り戻す。
確かに、顔は酒に浮腫(むく)んでいて、あんまり見れたものではないだろう。顔色も悪く見えるに違いない。気分の悪さに表情も曇りがち。暗闇でわかりにくくはあるが、右頬は醜く腫れあがっている。恐らく眉を読まれただけのこと。
当たり前のことに一々動揺する自分が、とても情けなかった。
「……まぁ、良い一日ではありませんでしたけど、別段悪い一日でもありませんでした」
「最近の若い者は何事に対しても曖昧でいかんなぁ」
「……でも、本当にそういう一日だったんです」
「そうかい? すごく嫌なことがあって腐ってるように見えるけどねぇ」
「そんなことない!」
鋭い音が、響いた。
ぽかんとした顔で、辺りをぐるりと見回してみても、公園には夜闇が沈殿しているだけ。誰もいない。
数秒して、その音は他ならない私自身の声だったと自覚し、先程以上に赤面した。今度こそ老人の顔を直視できず、首だけで俯いて地面を睨み付ける。
声を荒げたのは何年ぶりだろう。思うと同時に、あんなにまで熱くなった自分自身に混乱した。一瞬で頭に血が上り豹変した、その理由もわからない。
「そうかい」
カラカラと笑う老人に対し、私の顔は曇るばかりである。全身を巡るアルコールと、宵闇の中で見知らぬ老人と二人きりという異様なシチュエーションが、否が応でも私の心を乱した。
この場を離れた方がいいと感じた。今これ以上掻き乱されたら、どんな醜態を晒すかわかったものではない。
「お嬢さん」
私が行動を起こすより早く、老人がしわがれた声で呼びかけてきた。此処に満ちた静寂を割って、それは一際響く。聞こえなかったふりは、できそうにない。
私は視線だけ向けて応えた。電信柱が一つ、ベンチの横で佇んでいる。そこに取り付けられた電灯が降らせる電光は出来の悪いスポットライトのようだ。どこか冷たい感じのする白い光で、老人一人を煌々と照らしていた。
「嫌なことがあったんだね」
根拠のない、しかし確固たる断定に、今度こそ私は動揺を隠せなかった。
唇を開いては、息だけ発して、閉じる。その度に唇が乾いた音を立てて、思い出すのは数時間前。
「……今日の夕方」
口が勝手に動き始めた。ぎこちない動きだけれど、決して止まらない。
「振られたんです」
「彼氏に?」
「十年も付き合ってた彼氏に」
「それは悲しいなぁ」
「空しいの」
「どうして?」
「わからない」
「悲しくはないのかい」
「悲しくなんかない」
「どうして?」
「愛していなかったから」
「愛してたんだろうさ」
「愛していなかった」
「愛していたんだ」
断定。
最初こそ度胆を抜かれて呆然としていたが、何故だかその後躍起になって言葉を返す。
「私は、愛していなかった」
「どうして?」
「私は心が乾いているから」
「そうかい?」
「だから悲しくもない」
「そうかい?」
「アイツと並んでいる自分は変だった」
「どうして?」
「ドロドロしてて汚くて、私らしくなかった」
「そうかい」
「苦しかった」
「そうかい」
「ただ、今やけに空しいの」
「愛していたからだね」
「違う」
「違わない」
断定。
頭の中に色々な想いがぶちまけられて、回収しきれない。整理するために、想いを声に出して、一つずつ消化していく。それなのに、老人はそれをブチブチと無遠慮に潰してくる。
この人は、嫌だ。
私が拒絶したい言葉を投げつけてくる。
その全てを、否定しなくてはならない。
「お嬢さん」
呼びかけられてハッとする。いつの間にか、私の身体にも電光のスポットライトが降り注いでいた。そこでようやく、身を乗り出して必死に反論している自分に気付く。
夜の中で、私達二人がはっきりと照らし出された。
「感情が溢れてくるのは苦しいだろうさ」
ほんの少し、冷静さを取り戻したからだろうか。今度は老人に対して反論は浮かばなかった。むしろその言葉は、ストンと腹の底に落ちた。
「けれどそれを乗り越えないと、駄目だよ」
慈愛に満ちた、とでも言おうか。優しくて真っ直ぐな瞳。
その中心に、情けない顔をした私が映る。遠ざかりたくて、口を噤(つぐ)んで数歩、下がった。スポットライトの外へ出た。
言ったきり、老人はベンチに横になり、その身体に新聞紙をかけた。眠るつもりらしい。広々とした公園の一角で新聞紙一枚とは何とも心もとない気がするが、初夏の陽気だから特にこちらが心配する必要はないだろう。
私はといえば、しばらく黙していた。黙しながら、空を見上げた。
曇天。厚い雲が幾重にも重なって、今にも崩れ落ちてきそうな危うさを孕んでいる。夜が雲に染み込んで、暗い。
厚い雲を隔てた先に、星が煌めいているのだろう。確かに、あるのだろう。
けれど、届かない。届かなければ、意味はない。
私は想いを内側で煌めかせるだけで、アイツに届けようとはしなかった。
星明りが届かない。
「……さようなら」
首を静かに戻し、瞼を閉じている老人へ視線を戻す。
軽く一礼して、踵を返した。
「帰るのかい?」
「はい」
「一人で?」
「……はい」
「一人で大丈夫かい?」
「…………」
歩き出す。世界が歪んでいる。痛い。熟成された感情が血潮に乗って、全身を傷めつけながら駆け巡る。痛い、痛い、痛い。
公園の入り口まで来て、私は老人を振り返った。
ベンチに横になりピクリとも動かない。もう眠ってしまったのか。夜闇の中で唯一、電光に煌々と照らされる老人は、遠目からやけに神秘的に見えた。
もしかしたら本当に優しい妖精だったのかもしれないなと、真摯に思った。
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