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砂漠の乙女

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: konann
目次

第三話

――あり得ないって? まぁまぁ、おとぎ話なんだからさ。

――相変わらずのリアリストだよね。うん、変わりなくて安心した。だからこそ、この物語には共感してもらえると思って期待してたんだけどなぁ。

――お前ってまるで、『砂漠の乙女』みたいだから。

 それは皮肉ではなかった。何せ、相手に向かって真っ直ぐぶつかってくる男だったから。だからこそ、その言葉は痛かった。

 心が渇いていると言う。アイツの隣で、あんなにまでドロドロしていた私に対して、砂漠の乙女だと言う。わかっていない。アイツは私のことを何もわかっていない。

やりきれない想いを抱くたび、私の心はますますドロリとなった。

 しかしながら、その言葉は中々どうして、言い得て妙だったようだ。アイツに見捨てられて、それなのに、涙一滴流れない。アイツに対する愛が既に無くなっていたとしても、情ならば幾らか残っていると思っていた。それでも感慨一つ覚えないのは、やはり、そういうことなのだ。

 私は、『砂漠の乙女』なのだろう。


 呆然とする私の胸を衝撃、それに次いで嘔吐感が衝き、顔を顰めて地面に生唾を吐き出した。

瞼を閉じるだけでは遮断できない、背後から響く怪物の咆哮。嘲笑。胃液がせり上がってくる。手のひらで必死に口元を押さえて地面にうずくまり、鼻だけで呼吸を整えた。

「相当酔っ払ってんなぁ」

「まぁいいじゃん。さっさとやろうぜ」

 今度は脇腹に衝撃。捉えていた風景が、一瞬で視界の外へ流れ出ていく。やがて、涙の靄(もや)の先に鈍(にび)色(いろ)の雲が見えた。腹を蹴られて、仰向けに転がされたらしかった。

 状況が理解できたのは、鎖骨の辺りを風が滑った瞬間だった。温い風なのに妙に背筋がゾクリとして、酒にとろけていた自我がにわかに輪郭を取り戻す。

 恐ろしい怪物が三匹、私の身体に纏わり付いてきた。その内の一匹が、私のブラウスを力任せに引き裂いた。

 引き攣った悲鳴は布が裂ける音に掻き消された。振り払おうと闇雲に動かした手を、もう一匹の怪物が上から押さえつけてくる。手の甲が地面に擦れ、皮膚が破けた。

 助けてと声を張り上げると、視界が大きく揺れた。顔の辺りから大きく響いた鈍い音が、私の意識を支配する。何とも形容しがたい、けれど、嫌な音だ。次いで体の芯が、そして右頬がカッと熱くなる。生温い鉄臭さが口内一杯に広がって、そこでようやく痛覚が機能した。

 力いっぱい殴られた頬が焼けるように痛む。恐怖するでもなく、悲しむでもなく、憤慨するでもなく、呆然とした。強張った全身から、力がするすると抜け落ちていく。抵抗する気も消え失せて、完全に脱力した。

 人は、許容できないほどの衝撃を心に受けると、感情が抜け落ちてしまうものなのかもしれない。

肌が露わになる感覚に伴う嫌悪感や焦燥が、脱力感の中に埋もれて消えていく。恐怖よりも、波のように寄せては返す嘔吐感の方が鮮明に、より現実的なものとして身に迫る。

「なぁ、こいつ動かなくなったんだけど」

「殴られて竦んだんじゃねぇの?」

下卑た声が何事かを語り合っている。言葉とは、こんなにも聞くに堪えないものだっただろうか。私の記憶の中に刻まれた言葉達は、もっと繊細で高尚で、綺麗に輝くものばかりだ。

 綺麗な言葉が聞きたいと思った。

 喜劇でも悲劇でもいい。輝く言葉で紡がれる、懐かしい物語が聞きたい。

 碌な抵抗もしないまま、舌の上に溜まった唾液と血液を飲み込んでは鉄臭さに嘔吐く。怪物達を押しのける体力はおろか、気力も残ってはいなかった。

 首筋を、また、風が滑った。

 瞬間、風に運ばれてきた僅かな音を、耳が拾った。

「……助けて!」

 急激に焦燥感が膨れ上がる。感情が吹き出して、気付けば声を限りに叫んでいた。

 今度は殴られなかった。それどころか化け物達は、その顔に私以上の焦燥の色を浮かべて忙しなく辺りを見渡している。彼らも私と同じ音を聞いたのだろう。

 甲高いサイレンの音。

「助けてぇ!」

 パトカーのサイレンの音は、もうはっきりと耳に届いている。逡巡した後、化け物達が私から飛び退いた。その時には、視界の端に赤色のランプが瞬いていた。


 パトカーから二人の騎士が下りてきた。一人は逃げ出した化け物達を追い、もう一人は私の方へ小走りで寄って来る。

 大地にぺったりと座り込んでいた私の姿を捉えて、騎士の眉根が寄った。

「大丈夫ですか!」

 騎士の顔がぐんと近くなる。が、次の瞬間には、精悍な騎士の顔は嫌悪の色をはっきりと浮かべて怪訝そうに歪められた。小鼻が痙攣するように動いている。私の全身から漂う酒臭さを嗅ぎ取って、呆れているらしかった。

 ボタンを引き千切られたブラウスを胸元に手繰り寄せながら、私は何だか恥ずかしい心持ちでゆらゆらと視線を彷徨わせた。

「どうしてこんな時間にこんな場所にいるんです?」

 こんな場所、と言われて初めて辺りを見渡した。前方に、生臭い大きなポリバケツがあった。右方と左方、少々の間隔を空けて大きな壁……建物がそびえている。どこか古びたビルの隙間、路地裏に、私は座り込んでいた。

 騎士の声には、侮蔑の響きが滲んでいた。真夜中に、スーツ姿で酒に酔っている女だ。騎士の反応は道理だろう。こんな姿を見れば、アイツだって呆れて嘆息をもらすに違いない。

 途端、ひどく情けない心持ちになって、唇を噛んだ。

「聞いていますか?」

 思考だけが騒がしく、実際は全く口を開かない私に騎士は痺れを切らした。

 私は機械仕掛けの玩具のように、何度も首を縦に振る。ようやく唇を開くが、そこからどのような言葉を発信していいのか見当がつかず、やはりしばらく黙っていた。

 逡巡した後、恐る恐る声を零す。

「お酒、飲んでて。よく、おぼえてないんです。気づいたら、ここに」

 そうですか、と何の感慨もなく返ってくる。予想内の答えだったのだろう。

「飲みすぎには気をつけてください。今回は、近隣の方が貴女が襲われているのを見つけて通報してくれたからよかったものの……最近はひったくりやら誘拐やら物騒ですし、酩酊している状態でうろつくなんて……」

「はぁ」

 早口に捲し立てられる。説教の内容は半分も頭に入ってこない。

朦朧とした頭で作れる精一杯の反省の色を浮かべてやり過ごす。

「どなたか、呼べば迎えに来てくれる方はいますか? ご家族とか」
「いえ……一人暮らしでして」

「では、恋人とか」

 息が詰まる。

「恋人、は」

 数時間前まではいたのだけれど。とはいえ、お互い愛情は無くなっていたのだから、私達はひどく形式的な関係であった。

 たとえば、この状況を説明して迎えに来てほしいと言ったら、アイツは恋人の顔を取り繕って、ここへ来てくれるだろうか。涙ながらに怖かったと訴えれば、多少なりとも気にかけてくれるだろうか。

 殴られた頬が熱く疼いた。既に血は止まっているが、鉄臭さは拭えない。

「……いません」

 自分も、目の前の騎士も目を剥くほど、きっぱりと明瞭な響きであった。

 突如、覚醒する感覚があった。感情の泥濘(ぬかるみ)から急激に浮上する。四肢が、何かに操られるように動き出す。

 気付けば、呼び止める声は背後にあった。息が切れる。髪が乱れる。足が縺れる。走り出したのだと自覚した時には、騎士の姿は視界のどこにも映らくなっていた。

 細い道にぽつんと佇み、しばらく肩で息をして呼吸を整えた。細々と闇へ伸びる行路に、今更ながら、ふと不安が過る。怪物に襲われた時の恐怖が心中に去来し、両足を地面に縫い付けていた。

 一人で、大丈夫だろうか。

「……大丈……夫」

 グラグラと、トボトボと歩き出す。世界が歪んでいる。痛い。痛い。熟成された想いが、殴られた右頬をガンガン跳ねまわっている。痛い。

 ゆったりと歩き出しながら、私は騎士の顔を思い出していた。随分と口煩い人だったなぁと失礼なことを考えて吹き出した瞬間、彼が騎士ではなく警察だったことに思い当たる。更に記憶を辿れば、先程まで異形の化け物だと思っていた三人も、ただの若者であったと認識を改める。

 意識が混濁していたとはいえ、私が荒唐無稽な幻覚を見るとは、衝撃的であった。

 最初は小人。そして巨人。怪物に、騎士。

 それは、確かに覚えのある面子であった。

「……砂漠の乙女」

 犬歯が、それこそ砂漠のように乾いた唇に強く食い込んだ。

 やりきれなくて空を見上げる。

 星どころか夜空自体が見えない。雲に蓋をされているようだった。
 星明りが届かない。
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