第一話
アイツは年甲斐もなく、おとぎ話が好きだったから、付き合っている間は色々な物語を聞かされたものだ。荒唐無稽な話には興味が無かったので、私はその半分以上を聞き流していた。が、一つだけ、やけに興味を惹かれた物語がある。アイツが作った、自作の物語だった。
題名は『砂漠の乙女』。砂漠に住んでいる乙女、という額面通りの意味の他、砂漠のように心が渇ききっている乙女、という含みもあるのだとか。
……どうでもいい設定だ。
内容は至極単純。感情の無い女が世界を冒険し、故郷の砂漠に雨を降らせる話だった。故郷を出て、小人に会う。山に登って、巨人に会う。城に入って怪物と騎士に会う。泉に辿り付いて、優しい妖精に会い、乙女は自身の心と向き合う。
最終的に、砂漠の乙女は……まぁ、なんだかんだ色々な経験をして、雨を降らして、砂漠は潤い故郷は救われましたとさ。
……めでたし、めでたし、だ。
午後十時。
寂れた公園のベンチで、周囲に漂う色濃い夜闇を見つめていた。柔らかく漂う夏草の香りがしっとりと私に沁み渡る。温い風が、時折、遠くから音を拾ってきた。あぁ、今、どこかで誰かが笑った。
そうして、ぼんやりしていると、突然目の前に小人が現れた。
「お姉さん、何をしてるの?」
暗澹(あんたん)たる景色を背景にして、純粋な瞳をした小人だけが鮮やかに映った。
私は少し躊躇った後、軽薄に笑った。ばんしゃく、と暗く呟く。枯れた唇が擦れ合う。小人に声が届いたかは定かではない。
傍らに転がしておいた酒瓶に手を伸ばした。小さな瓶の中、揺れる飴色の液体が、どこからか注がれる電灯を緩やかに弾いて光る。コンビニエンスストアで小銭を叩いて手に入れた、安物の日系ウイスキー。
蓋を開け、喉の奥に流す。大して美味くもない。遠い星空を眺めながら三回喉を鳴らして、瓶の口から唇を離す。飲み込みきれなかった数滴が、緩く開いた唇をわずかに潤して、ひたりと零れ落ちた。
「小人さんこそ、何をしてるの」
「……こびと?」
逆に問えば、小人は怪訝そうな顔を見せた。周囲へ忙しなく目を配せて、眉根を寄せたまま再び私に顔を向ける。沈黙の中で視線を絡ませて数秒、警戒の色が小人の吐息に滲んだ。
「……僕は、じゅくの帰り」
じゅく、と反芻する。
じゅく、じゅく。……あぁ、塾、か。そういえばアイツも学生時代は塾に通っていたな、と懐かしく思い起こす。
「……汚れちゃうよ?」
小人がぷっくりと膨れた指を一直線に私の方へ向けた。
私は自身の姿を見下ろして、あぁと呟く。そういえば、私はスーツを着込んでいる。仕事帰りなのだから当然だ。口の端からこぼれたウイスキーが顎を伝って流れ落ち、白いブラウスを濡らしていた。
拭おうと持ち上げた右手がやけに重く感じられ、気怠くなって結局下ろした。首に力が入らなくなって、がくりと頭を後ろに倒す。重心が僅かにずれただけなのに、腰かけていた腐りかけのベンチが乾いた悲鳴を響かせた。
労わるようにベンチの木の目を撫でて、視線は真っ直ぐ、空へ。
星空。雲一つない空。濁った黒い空。鈍い光を放つ星がいくつか、所在なさげに浮かんでいる。ネオンやガスや、地上から立ち上る汚い物が、遥か天上に広がる美しさを遮っている。星明かりが届かない。
もっと綺麗な場所へ行きたいと思った。澄んだ空気が広がる場所。そこで空を仰いだら、きっと宇宙が透けて見える。そこへ行けば、ドロドロの私もきっと透き通る。
喉の奥で軽快な音がした。自分が笑ったのだと、しばらく気付かなかった。首を静かに戻すと、また、ベンチが悲鳴を上げた。今度は労わってあげない。
小さな瓶を握りしめて、私はゆらりと立ち上がった。
突然動き出した私に小人が驚いて、よろけるように数歩後ずさる。
「帰るの?」
「もっときれいな空を見に行くの」
「一人で?」
「そうそう、ひとりで」
「危ないよ。一人で大丈夫なの?」
「だいじょうぶだよ」
ゆらゆらと、ふわふわと歩き出す。ぐらんぐらんと世界が歪んでいる。痛い。痛い。熟成された想いが頭の中をガンガン跳ねまわっている。痛い。
すれ違う瞬間、今まで小人だと思っていた人物が、ただの小学生であることに気付いた。困惑したような表情で見送る彼に、フフフと笑いかけて、別れの挨拶に代えた。
題名は『砂漠の乙女』。砂漠に住んでいる乙女、という額面通りの意味の他、砂漠のように心が渇ききっている乙女、という含みもあるのだとか。
……どうでもいい設定だ。
内容は至極単純。感情の無い女が世界を冒険し、故郷の砂漠に雨を降らせる話だった。故郷を出て、小人に会う。山に登って、巨人に会う。城に入って怪物と騎士に会う。泉に辿り付いて、優しい妖精に会い、乙女は自身の心と向き合う。
最終的に、砂漠の乙女は……まぁ、なんだかんだ色々な経験をして、雨を降らして、砂漠は潤い故郷は救われましたとさ。
……めでたし、めでたし、だ。
午後十時。
寂れた公園のベンチで、周囲に漂う色濃い夜闇を見つめていた。柔らかく漂う夏草の香りがしっとりと私に沁み渡る。温い風が、時折、遠くから音を拾ってきた。あぁ、今、どこかで誰かが笑った。
そうして、ぼんやりしていると、突然目の前に小人が現れた。
「お姉さん、何をしてるの?」
暗澹(あんたん)たる景色を背景にして、純粋な瞳をした小人だけが鮮やかに映った。
私は少し躊躇った後、軽薄に笑った。ばんしゃく、と暗く呟く。枯れた唇が擦れ合う。小人に声が届いたかは定かではない。
傍らに転がしておいた酒瓶に手を伸ばした。小さな瓶の中、揺れる飴色の液体が、どこからか注がれる電灯を緩やかに弾いて光る。コンビニエンスストアで小銭を叩いて手に入れた、安物の日系ウイスキー。
蓋を開け、喉の奥に流す。大して美味くもない。遠い星空を眺めながら三回喉を鳴らして、瓶の口から唇を離す。飲み込みきれなかった数滴が、緩く開いた唇をわずかに潤して、ひたりと零れ落ちた。
「小人さんこそ、何をしてるの」
「……こびと?」
逆に問えば、小人は怪訝そうな顔を見せた。周囲へ忙しなく目を配せて、眉根を寄せたまま再び私に顔を向ける。沈黙の中で視線を絡ませて数秒、警戒の色が小人の吐息に滲んだ。
「……僕は、じゅくの帰り」
じゅく、と反芻する。
じゅく、じゅく。……あぁ、塾、か。そういえばアイツも学生時代は塾に通っていたな、と懐かしく思い起こす。
「……汚れちゃうよ?」
小人がぷっくりと膨れた指を一直線に私の方へ向けた。
私は自身の姿を見下ろして、あぁと呟く。そういえば、私はスーツを着込んでいる。仕事帰りなのだから当然だ。口の端からこぼれたウイスキーが顎を伝って流れ落ち、白いブラウスを濡らしていた。
拭おうと持ち上げた右手がやけに重く感じられ、気怠くなって結局下ろした。首に力が入らなくなって、がくりと頭を後ろに倒す。重心が僅かにずれただけなのに、腰かけていた腐りかけのベンチが乾いた悲鳴を響かせた。
労わるようにベンチの木の目を撫でて、視線は真っ直ぐ、空へ。
星空。雲一つない空。濁った黒い空。鈍い光を放つ星がいくつか、所在なさげに浮かんでいる。ネオンやガスや、地上から立ち上る汚い物が、遥か天上に広がる美しさを遮っている。星明かりが届かない。
もっと綺麗な場所へ行きたいと思った。澄んだ空気が広がる場所。そこで空を仰いだら、きっと宇宙が透けて見える。そこへ行けば、ドロドロの私もきっと透き通る。
喉の奥で軽快な音がした。自分が笑ったのだと、しばらく気付かなかった。首を静かに戻すと、また、ベンチが悲鳴を上げた。今度は労わってあげない。
小さな瓶を握りしめて、私はゆらりと立ち上がった。
突然動き出した私に小人が驚いて、よろけるように数歩後ずさる。
「帰るの?」
「もっときれいな空を見に行くの」
「一人で?」
「そうそう、ひとりで」
「危ないよ。一人で大丈夫なの?」
「だいじょうぶだよ」
ゆらゆらと、ふわふわと歩き出す。ぐらんぐらんと世界が歪んでいる。痛い。痛い。熟成された想いが頭の中をガンガン跳ねまわっている。痛い。
すれ違う瞬間、今まで小人だと思っていた人物が、ただの小学生であることに気付いた。困惑したような表情で見送る彼に、フフフと笑いかけて、別れの挨拶に代えた。
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