ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

英雄幻葬譚

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: konann
目次

第拾玖話

 それから。ヒルダはジークフリードと顔を合わせることもなく、数十年の月日を生きて死んでいった。家主がいなくなり、ただの空き家となった彼女の家に足を運んだのは、やはりどこかで彼女を忘れられなかったからだと思う。

 そこで彼女の日記を見つけて目を通した後、ジークフリードは何か奇妙な孤独感に囚われた。

 それからだ。虚構の中に逃げ場を作り始めたのは。

「確かに居心地がいい。救われた気持ちになる。……でも、それじゃ駄目なんだよ」

 昔話を終えたジークフリードは、寂しげな笑みを浮かべたまま独白を続ける。北風が強くなり、室内に流れ込んでくる隙間風は先程よりも鋭さを増してジークフリードの頬を掠めていった。あちこちガタがきているこの家には何百年住んだのだろうか。もうよく覚えていない。

 一方のヒルダは一向にジークフリードの話が見えないようで、困惑の表情を浮かべ続けていた。

「ヒルダ」

 縋るような声で彼女を呼べば、ヒルダは心配そうにこちらを覗きこんでくる。

 永劫の時を生き、何にも属さない異形の存在。ジークフリードになってしまった日から彼は何者をも遠ざけた。共に生きられないと知ってなお仲間であると、絶望する直前まで信じ続けてくれた親友さえも。

 全てを諦めたような顔をしながら、しかし自分は諦めてはいなかった。欲望にも似た願いと、切り捨てたはずの絆を。そしてズルズルと半端な望みをぶら下げて、今日に至ったわけだ。

化け物になって、いじけたように人を遠ざけて、親友を忘れられないで。自分は結局なにを望んでいるのか。昔話をしながら過去をなぞり、そしてようやく確信できた。

「俺の名前を呼んでくれ」

 それだけ言うと、ヒルダは首を傾げながら、ごく当然のようにその名を口にした。



「シグルス」


 突如、目の前が涙でぼやけた。

あの日、仲間だと言ってくれた彼女にジークフリードは応えられなかった。もし自分がシグルスだったら、迷わずその手を取れたのに。

結局、自分の願いはヒルダと同じ。彼女と共に生きていく、そんな簡単で実現不可能な願い。ただ同じ時を同じように生きたかった、だけ、なのに。笑ってしまうほど脆く儚く、彼女と同じ場所で生き、死んでいきたかった。

しかし、それができるのはシグルスで、ジークフリードはそれができない。彼はシグルスでありたかった。

ずっと、ずっと、何年も何百年も、未練がましく。

俯き黙り込んでしまったジークフリードを心配して、ヒルダがソファから腰を上げた。歩み寄ってきたヒルダがジークフリードの手を引いて、ふたたびソファに腰かけるように誘う。ジークフリードはそれを片手で制し、薄く笑った。

真に決別の時が来た。

 ジークフリードは壁に描かれた魔法陣に手をかざす。陣に触れた瞬間、一際眩く輝いた魔法陣はまるで砂の城が崩れていくように、指先が触れた場所からゆっくりと、粒子になって消えていく。

 防衛と調伏の魔法陣。初めてヒルダに見せた魔術だった。

自分のことをシグルスと呼び続けていた彼女は、ある意味で彼の枷でもあり楔でもあった。もう人間のシグルスには戻れない、自分はジークフリードとして永久に独りで生きていかなければならないのに、それでも彼を仲間だと言った彼女はジークフリードにとって希望の象徴だった。だから何百年も縋りついて、シグルスにもジークフリードにもなりきることなく甘えてしまった。

「違うよ、ヒルダ」

ヒルダを振り向く。魔法陣が消えていく様を呆然と見つめていた彼女の額が、にわかにドロリと流動し溶け出した。左目から左頬にかけての肉が溶け落ちて、そこから覗くピクシーの瞼の無い瞳。まだ魔術の効果が切れていないのか、どんよりと曇った瞳がジークフリードを映す。

気が遠くなるような長い月日、調伏の魔法陣によって操られ幻影を作り出し、この茶番劇につき合わされていたのだ。自我を取り戻すにはまだ時間がかかるのだろう。

ジークフリードはヒルダだったものを静かに抱きしめた。魔物特有の生臭い臭気が鼻を掠める。先ほどまで彼女からほのかに漂っていた紅茶と花の香りは完全に失せていて、あぁやはり全て幻影だったのだと当たり前の現実を実感した。

抱きしめる腕に力を入れる。まだヒルダの輪郭を残したままのピクシーの残骸は、ジークフリードの腕の中で歪に歪んでいく。腰に下げたままだった剣の柄に手を伸ばし、音もなく刃を引き抜いた。

すべてはジークフリードの願いの具現化。幼い頃から共に育ち、一番の親友として、時には姉のような存在として、心のどこかでは一人の女性として、何よりも大切だった人。平和になった世界で彼女と手を取り合って、限られた時間を精一杯に生きて、共に死んでいく。

そうありたいと願った。

「俺はジークフリードだ」

 ヒルダだったものの背中から剣を突き立てる。核となるピクシーの身体の中心を貫いて、刃はジークフリードの腹部をも貫通した。

 ピクシーはわずかに身じろいだものの叫びらしい叫びを上げることもなく、やがて身体を弛緩させた。ヒルダの幻影ごと赤黒い粒子になって少しずつ宙に霧散していく。

 内臓と肉が裂かれた激痛がジークフリードを襲う。ごぼりと赤い血液が口の端から一筋零れた。息が苦しい。目眩がひどい。心が痛い。
だけど、死ねないのだろう。

助けを求めるかのように、あるいはジークフリードを助けようとするかのように、ヒルダの輪郭を残した腕が最後の力を振り絞って伸ばされる。

瞼を閉じて、その手を振り払った。いつかの時と同じように。




次に目を開けたとき、そこにはもう誰もいなかった。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。