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英雄幻葬譚

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: konann
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第拾話

魔術は普通、魔術師の家系に生まれた者や素養がある者に対して、専門家がつきっきりでイロハを叩き込み数年をかけて習得するものである。書籍は数多存在するため独学が不可能な分野ではないにせよ、今まで物理的な戦闘しかしてこなかった素人が習得するにはそれこそ血の滲むような努力が必要な代物なのだ。

 それを二年という短期間で、知識の一切ない状態からここまでの魔術を身につけたという。もともと才能はあったのだろうが、それを抜きにしてもどれだけの努力をしたのだろう。そういえば寝坊が多くなったのも、非番の日に外で見かける回数が減ったのも、確か二年前からだったと思い返した。

「どうしてそんな努力して、ドラゴンを倒そうなんて、突然……」

 正義感が強い青年だということは痛いほどわかっていた。それでも、近衛になったばかりの頃にシグルスはよく言っていたのだ。この町や家族や友人。自分の力で手の届く範囲のものを護れればそれでいいのだと。

 シグルスから笑顔が抜けて、また真摯な顔つきになっていく。少しバツが悪そうに視線を落とすと、ゆっくりとヒルダに歩み寄ってきた。

 ぼんやりとその足取りを見つめていたヒルダの頬にシグルスの手が添えられる。度重なる鍛錬の末に皮膚が硬化した手のひらは少し温度が低い。

「だってお前が、いつも泣きそうな顔してるから」

 真意を見透かされて、動揺に見開いたヒルダの目尻は乾いていた。いつだって頬を濡らさないよう気丈に振舞っていたから、いつも通り乾いていた。

 どんなに戦っても魔物を倒しても、苦しみの増していく世界を眺めているうち日に日に絶望の色が濃くなった。近衛として町を護る自分が弱音を吐くまいと外では明るく人と接し、配給の食べ物も底をついて胃が荒れ果てた夜などは、慣れているはずの魔物の血の臭いに悪寒がして一晩中泣きながら吐き続けることも珍しくはない。

 シグルスの前であっても例外ではない。パートナーに情けない姿は見せまいと、しっかり者としての皮を被って今日まで振舞ってきたというのに。すべて空元気だと気づかれていたなどと。

 ヒルダは震える手をシグルスの手の上に重ねた。

「……行かないで」

 言葉と共にほろりと雫が滴り落ちる。

熱を帯びたそれは頬骨を伝ってシグルスの手を濡らした。

「ドラゴンって信じられないほど強いのよ」

「うん」

「色んな人が戦って、負けて、死んでいってるの」

「うん」

「あなたも、死ぬかもしれないのよ。シグルス」

 久々に出した涙声は存外しっかりと輪郭を保っていて、言葉を正確にシグルスへ伝えていく。ずっと堪えていた分、とめどなく流れ出る涙はヒルダの感情を痛いほどシグルスへ示す。

 シグルスは笑うことも困惑することもなかった。穏やかに微笑んで静かにヒルダの言葉に相槌を打つ。まるで赤子をあやすようにヒルダの背中を優しく叩く。

「それでも、やってみなくちゃわからないって俺は思ってる。なぁ、憧れるだろ? ドラゴンがいなくなって、魔物も減って、俺たちが戦わなくても平穏な世界」

 ヒルダは少し沈黙した後、わずかに首を縦に振った。

「ドラゴンを倒したら、真っ先にこの町に帰ってくるよ。そしたら俺とヒルダと町のみんなでお祝いパーティーとかしてさ。あ、そうだ。その時はヒルダのお気に入りの紅茶、用意しといてよ。あとそれに合うクッキーとケーキ」

 ひたすらに明るい未来図を描いて、妙に上滑った声でシグルスが笑う。ヒルダを元気づけようとしていることは一目瞭然だったが、意図した明るさはどうにも空回っていた。シグルスは、自然体で誰かに接している時が一番輝いている。

シグルスの中では、もうドラゴン退治に行くことは決定事項のようだった。ここまで固い意志を持っているのならば、自分がどう頼み込んだところで覆ることはないだろう。長年の付き合いでそう悟ってしまった自分自身がヒルダはどうしようもなく疎ましかった。

「あなたがいなくなったら、町の警備はどうするの。今でもギリギリなのに」

「ヒルダがいるから大丈夫。心配だったらさっきの防衛と調伏の魔法陣、いくつか発動させてから旅立つよ」

 恨みがましい声で絞り出した文句は、邪気のない言葉と代案に押し込められた。この焦りと不安と、泣き顔を見られた悔しさをどう処理してくれよう。

唇を噛みしめてまた一つ涙をこぼしたヒルダに、シグルスが穏やかに語りかける。

「お前が俺の帰る場所を護ってくれてるって信じてるから俺は安心して旅立てるし、お前は俺が英雄になって帰って来ることを信じてこの町を護っててほしいんだ。いる場所は違うけど、これもある意味共闘なんだよヒルダ。どちらかが欠けちゃ成り立たないんだ」

 いつからそんなに口が回るようになったのだろう、とぼんやり思う。昔から不真面目でその場しのぎの適当な言葉ばかり並べては、自分に論破されて泣きべそばかり掻いていた少年が、いつからこんなにも大人びたことを口にするようになったのだろう。

 今まさに丸め込まれようとしている自分自身を自覚して、ヒルダは感じ入るように瞼を閉じる。

 信じるしかないのだと、思う。

「一緒に戦ってくれるか?」

 彼の問いかけに、まず、狡い奴だと思った。その後に呆れと諦めと、疲労感のようなものが押し寄せる。

 そう言われて断れるわけがないことを彼は知っているのだろうか。だとしたらとんでもない策士だ。この自信に満ちた目。不安や恐怖の翳りを掻き消すような強い眼光を見れば、食い下がる気力も失せていく。

 断るという選択肢は完全にヒルダの頭の中から霧散した。

「絶対に帰ってきて」

「うん。約束する」

 涙が溢れるのも構わず、ヒルダはもう一度、強く言い切った。

「シグルスが帰ってくるって信じて待ってるから」

 その後すぐにシグルスは旅立った。ドラゴンを倒し、英雄ジークフリードとなったのが三年後。そして別人のように冷徹になってこの町へ帰ってきたのが、それからさらに二年後のことであった。
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