ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

英雄幻葬譚

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: konann
目次

第玖話

仕事だ。シグルスを気にかけながらも槍の柄を握り直したヒルダだったが、不意に視界の真ん中にシグルスの背中が割り込んで瞠目する。背中越しに振り向いたシグルスが不敵に笑って見せた。

 ちょっと見てて、と声を出さずに唇の動きだけでヒルダに伝えると剣も抜かないままシグルスが茂みへ歩み寄っていく。

あまりのことに仰天して動けないヒルダの目の前で、枝葉を揺らして魔物が地面へ下りてきた。猿のような姿をした知能の低い個体。この地域に多く生息する下級の魔物であった。

それでも武器も構えないまま近づいていいような存在ではない。シグルスの考えがまったく読めず、しかし不用意に動くのも魔物を刺激することに繋がる。結局押し黙ったまま、事の成り行きを見守るほかなかった。

 先に動いたのはシグルスだった。懐から一枚の茶ばんだ紙を取り出すと、魔物に向けて掲げる。随分と古びたその紙は陽光に透かされると、そこに描かれた文様を薄く浮かび上がらせた。

 魔法陣。そうヒルダが認識するのとほぼ同時、シグルスが何事かを呟くと陣が淡い光を纏って脈動した。

 魔術の心得のないヒルダには、それが何を意味するのかはわからなかった。ただ眩い光がその場を包み込み、気づいたときには殺気が消えていた。魔物を追い払ったのかと思い目を開けるが、いまだ魔物はシグルスの目の前にいる。

 無垢な光を宿した瞳に敵意はすでにない。それどころか気を許したかのようにシグルスへ歩み寄ってきた。しかし一定の距離まで近づくと、シグルスの持つ魔法陣が脈動し、バチンと弾くような音を立てて魔物の接近を拒んだ。

「森に戻れ。二度と来るな」

 シグルスがそう命じると、魔物は横に長い耳をピクリと動かし言われた通り踵を返した。軽い足取りで森の木々へ飛び移り、やがて枝葉を揺らす音が完全に彼方へ消える。

 二の句が継げないまま佇むヒルダの前で、シグルスが浅く息をついて魔法陣の描かれた紙を再び懐へしまった。

「すげーだろ」

 したり顔で振り向いたシグルスに応える余裕もなく、ヒルダはぱくぱくと口を開閉させる。

「今のは……魔術?」

「防衛と調伏の魔法陣。王国お抱えの魔術師でも扱いの難しい高等魔術だ」

 すげーだろ、ともう一度胸を張ったシグルス。魂が抜けたような顔でヒルダが素直に頷くと、ぱっと顔を明るくしたシグルスが少年のような笑顔を見せた。

「二年前くらいから地道に魔術の訓練もしてたんだ。他にも色々使えるんだぜ? 炎も出せるし離れた場所に瞬間移動もできる。ちょっとした怪我なら回復もできるしさ」

「……どうして?」

「だからドラゴンを倒そうって思ったから、そのために」

「そうじゃ、なくて」

 ヒルダは混乱する頭で必死に言葉を絞り出す。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。