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アンジュ・ヴィエルジュ ~Another Story~

原作: その他 (原作:アンジュ・ヴィエルジュ) 作者: adachi
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第19話 翠緑と群青の追憶⑧

 正確には、ゼンジは気を失ってはいなかった。床の上で眠りこけていたのだ。遥とセナが側にきて突いたり、揺すったりするとやがて目を覚ました。
 自力で起き上がれはしたものの、足元が覚束ない様子に遥とセナは目配せし、必要ないと言い張るゼンジの両腕を支えて、テオドーチェたちが待つ風紀委員室まで付き添った。ブルーミングルームから渡り廊下を渡って校舎に入った時にはゼンジは問題なく歩ける感覚を取り戻していたのだが、遥が面白がって離れようとしなかった。そのせいでセナも離れがたく、結局風紀委員室まで来てしまった。
 部屋に着くなり、クラリス、テオドーチェ、アクエリアがゼンジを忘れていたことを口々に謝った。
「ごめんごめん。ゼンジ君って案外しゃべらないと存在感薄いから」
「放置された上にディスられるとは。それほどの何をしたというのか」
「申し訳ありませんでした。ゼンジさん。バッテリー消費が大きく、省エネモードに入っていたので、注意力が疎かになっていました」
「テオも死ぬほどくたくただったから気づかなかったのだ」
「私も思い及ばなかった。すまない」
「でも床の上で眠るほど疲れてたんだよね。ブルーミング・バトルのリンク、そんなにきつかった?」
 遥が珍しくしおらしい表情と声で言ったものだから、ゼンジの喉まで出かかった軽口は行方を失って霧散し、この男にしては軽佻浮薄な虚言を吐いてしまった。
「ん、ああ、いや、これはあれだ、昨日の夜からライゴの奴にプラモデル作りに付き合わされてな。徹夜でかかってたもんだからつい寝ちまったのさ」
 言った本人が最も不憫に思える、おそろしく程度の低い、つまらない言い訳だった。普段ならもっとマシなことも言えようものだが、やはりまだ完全には頭が覚醒していなかった。これ以上遥たちに不安を生じさせるようなヘマを演じるわけにはいかない。彼女たちの負担になるわけにはいかないのだ。
「そうなの? 最近ゼンジ君、疲れてそうだったから」
「そうか? お前らの方がひどいぞ。毎朝鏡を見てるか? ほうれい線が出てきてるぞ」
「あーー! 女の子にそういうこと言っちゃうんだ! ゼンジ君最低ー」
「ゼンジは最低なのだ」
「最低だな」
「最低ですねー」
「お前らひょっとして俺のこと嫌い?」
 デリカシーだの乙女心だのを並べ立てる連中は無視して、扉の前で所在無げに立っているセナと、隣に浮いている謎の生物に体を向ける。
「お前に助けられたのは、これで2度目だな。確かセナ・ユニヴェールだったよな。またまたありがとう。そこの毛玉もな」
「毛玉って何よ! 失礼なアルドラね! アタイの名はウルリカっていうのよ!」
「変な色したキツネがしゃべったのだ!」
「キツネじゃない!」
「そうだよテオ。あれはきっと未来からきたタヌキだよ」
「アンタが一番失礼ね!」
 怒り狂うウルリカの隣で、セナは後ろに組んだ手を先程から何度も入れ替えては戻す作業を密かに繰り返していた。
「あ、あの。ゼンジさんも大丈夫そうなので、私たちはそろそろ出ていきます」
 そう言ってドアノブに手を掛けようとすると、遥がそれを引き留めた。
「あ、待ってよセナちゃん! せっかくだし、もっと話していかない?」
「で、でも、私がいたんじゃ邪魔になるかもしれませんし…」
「邪魔だなんて思わないさ。ゼンジの恩人だ。私たちからも何かお礼をさせてくれ」
「今お茶をお淹れしますね」
 アクエリアが部屋に備え付けられているティーポットに茶葉を入れ、お湯を注ぐと、紅茶の香りが6人と1匹では多少狭く感じられる部屋の中に満ち溢れた。
「あら、いいわね。そういうことなら少しだけお言葉に甘えようかしら」
「リカ……!」
「いいじゃない、セナ。アンタはもっと開明的になってもいいと思うわ。それにこいつらは失礼だけど悪い人間ってわけじゃなさそうだしね」
「でも……」
「大丈夫よ、セナ。不安はわかるけど、怖がってはダメ。そんなんじゃいつまで経っても変わりゃしないわ。普通とは少し違うアンタだからこそ、見つけられるものを見つけなくちゃ」
「ほら、セナちゃん。ここに座りなよ。ウルリカちゃんは座布団でいい?」
「アタイはセナの膝の上という特等席があるからね」
 ウルリカがセナの肩に乗り、催促するように尻尾で背中をさすった。いつもの癖である。いつも彼女は、セナの側にいて、入り乱れた思考の中で混迷するその背を優しく押してくれた。温かく、柔らかい彼女の掌の感覚を今でもはっきりと思い出すことができる。忘れ得るはずがない。セナにとって、緑の森の中で射す、一条の木漏れ日に似た追憶。欠くべからざる己の一部。掌が綿毛に変わっても、その効験はわずかでも劣ることはなく、昔日の記憶と同化するようにセナを進むべき道へと押してくれた。
 指先でなぞるほどの力加減だったが、セナは1歩を踏み出せた。精神的な1歩を、行動的な1歩を。やがては彼女の世界を変える1歩を。紅茶の香りと、五月の翠緑の風と、賑やかな声で溢れる世界へとセナは踏み入り、自分の存在を確かめるように胸を手で支え、深く息を吸い込んだ。
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