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素直じゃない彼の落とし方

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 中野安樹
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覆水盆に返らず

変わってなかった。昔に比べたら増えた目尻のシワも白髪も、なぜだか色っぽく感じる。柔らかいけど、女っぽいわけじゃない。たいして弱っていないと思っていたけど、昔みたいに急に会いたくなってしまった。お節介で甘やかし上手なアイツについ、甘えたくなったのかもしれない。自分から別れを切り出して、捨てた分際で、何すがってんだ?って話だ。

「幸せそうな顔しちゃって」

喫茶店を出てすぐ、やっぱり気になって振り向いた先には、特別な相手にしか向けないアイツの笑顔があった。昔は自分に向けられていた甘い笑顔を思うとチクリと胸が痛む。

「良かったな、圭」

ぶっきらぼうで素直じゃない昔の恋人は、新しい思い人と上手くいっているらしい。急に現れた元カレの自分は、彼らの駆け引きにちょうどいい、スパイスにでもなったのだろうか。自分の存在をエサに、さぞやイチャイチャ楽しんでいるに違いない。

「あーぁ、癒されてぇなぁ。あ、その前に仕事仕事」

ささくれだった胸の傷が、ザワザワ嫌な予感だけを感知している。なんとも言えない、大げさな警報を鳴らしているような胸騒ぎ。いつまでもざわつかせる胸の痛みも感じる。だけど、圭を忘れられなかった自分にハッキリ言い聞かせなきゃいけない。

「お前がまいた種だろ?今さら」

独り言は、いつになく厳しく耳の奥でこだまする。今さら何をしようって言うんだろう。もう、彼は前を向いているのに。

「ねぇ、聞いてます?緒方さん。僕めっちゃ話しかけてますよ?真面目に、仕事してます?」

ねぇ?斜めに傾けた顔を、ずいっと近づけられてやっと気がついた。そういや、新人のお守り頼まれたんだった。急に圭の喫茶店を思い出して、昼休憩を別にとってから、合流して営業伝票の整理を指導しているところだ。と、いっても優秀な後輩くんはあまりミスをしない。

「わりぃ。佐藤はわりとできるから、だりぃなぁってなあ」

最後の方はアクビまじりなのが余計にやる気を感じさせない。

「うっわ、最低。わりとって」

だいたい、先輩はだから昇進できないんすよ、なんてブツブツ言ってやがる。子リスみたいに頬を膨らませて、唇を尖らせている様子が、童顔の彼をさらに幼くみせている。

「なぁー、佐藤さん。最低な先輩は今、傷心でもうね。お仕事どころじゃないのよ。慰めて介抱してちょ」

「ったく。何を今さら、半別居状態だったでしょうが」

「でも事実、心ポッカリなんだよぉ」

「奥さんが、浮気してたの気付いた時だって、先輩ケロッとしてたでしょうよ」

「浮気、なぁ」

妻の葉月は圭とは違って、物静かでとても落ち着いた女性だった。お互いに、大切な人がいる身の上の、世間体へのカモフラージュといった形で、結婚することになった。体の関係もなく、実にビジネスライクな関係だった。いくら偽装とはいえ、結婚と言う名の細い鎖に、3年近くは繋がっていたハズだ。男女の関係がなくても離れることのないパートナーだと、思っていた。でも、彼女は違ったらしい。さっさと恋人を選んで去っていった。別れ際は、やけにスッキリした顔でアッサリしたものだった。元々、契約に近いビジネスパートナーに近かったからだろうか。離婚というのはもっと、こじれて長引いて、離れられない何かが存在するのだと思っていた。微かな情だけが、粉雪みたいに舞っている。

「結局は紙切れよ、だな」

「うっわぁ、最低」

話の流れから再び、自分の事を言われたのかと、眉を動かす。さすがに言い過ぎじゃ?一言言ってやろうかと口を動かそうとしたら、ヒラヒラと喫茶店の領収書を振っていた。よく見ると何となく、見覚えのあるマークが見える。いつの間に紛れ込んだんだか、覚えのない領収書は圭のところの喫茶店のやつだった。

「緒方先輩、私用は請求出来ないし僕のところに紛れ込ませないで下さいよ」

「なんだよ。レッスン料だろ」

「あんた、一人で何のレッスンしてくれたんだよ」

「先輩に向かって、あんたって」

急に、口が悪くなった後輩に怒るどころか笑いが込み上げてくる。小さな子どもみたいに、くるくる変わる表情が可愛い。可愛いと表現してしまう自分に驚きつつも、そんな事実を気がつかなかったフリをした。

「これは、経費で落とせませんけど。いつもさりげなく、フォローしてくれてるお礼しますよ。仕方ないから、ご飯おごります」

何だかんだといって慰めてくれようとしているのがわかって、少し気恥ずかしくなってしまう。よく見ると、佐藤の首筋が少し赤くなっている。圭のうなじをふと思い出してしまった。甘い過去の幻想を振り払うように、慌てて首をふる。冗談じゃない。

「マジ?ビール行きますか」

「ほんと、緒方先輩は現金ですよね。呆れるくらい」

微妙な空気を払拭するかのように、わざとらしく明るく喜んで見せたら、いつもの雰囲気に戻れたようだ。落ち着かない胸騒ぎは、なりをひそめている。やれやれ。もっともらしく、ため息のようなぼやきのような苦笑が、聞こえてきた気がした。
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