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飛ぶ鳥の影

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 志の字
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5話

 頭痛がする。それはしばらくぶりのことだった。
 数年前、ふさぎ込んでいた頃に悩まされていたもの。『空』に出会い、山白女学院に入学し、徐々にではあるが鳴りを潜めていたはずのものだった。
 どうしてだろう。ここ数日、それがぶり返していた。
 新しいクラスでの学校生活には慣れてきていた。クラスメイトとも、気兼ねなく話せる程度には仲良くなった。授業にもついていけている。
 興味のない聖書の話を聞き流して、私は廊下側へ視線をやった。
 薄い肩に掛かる艷やかな黒髪。磁器みたいに透き通った白い肌。切り揃えられた前髪の下に覗く、長いまつげと胡乱げなまぶた。小さな鼻。桃色の薄い唇。
 雨宮日鞠は、今日もどこか精気の抜けた表情で授業を受けている。私にとってはすでに見慣れた、いつもの光景だった。
 彼女は運動以外の分野で常にトップクラスの成績を叩き出している。勉強だけではなく、神学も、日舞も、音楽も。何をやらせてもそつなくこなし、すぐにコツを掴んで人よりも上を行く。それは才能だろうか、努力だろうか。どこか無気力そうに見える彼女に、努力という言葉は似合わないから、才能なのだろうと思う。
 彼女が楽しそうに授業を受けているところは、見たことがない。クラスメイトで彼女に近寄るものはほとんどいなかった。理由はそのままで、近寄りがたい雰囲気をまとっているからだ。
 入学してすぐ、一年生の初めの頃は、彼女の周りには大勢の人がいた。彼女は入学する前から有名人だ。注目を浴びるのは分かりきっていた。
 しかし、数ヶ月もすればその人たがりは消えていた。
 彼女が周囲の人間に興味を持っていないことは、見ていれば分かる。いくら憧れの的とはいえ、彼女の周囲から人が消えていくのは、当然の帰結と言える。
 ……私も、消えていった周囲の人たちと同じだ。
 近寄りがたいから、近寄らない。それだけのこと。同じクラスになってからも、彼女とは関わりがない。
 ……頭痛がする。掻痒感のようなものが胸のあたりでわだかまりを作る。
 私は何も変わっていないし、進んでいない。展示室で絵を見て、ただ遠くから彼女を見ているだけ。私はまた、あの頃のように、止まってしまったのだろうか。
 私は何かを期待していた。同じ学校に入ったから。同じクラスになったから。彼女に近づけると思っていた。
 あの絵画を描いた彼女に。
 いや……違う。『空』を描くことができる彼女に。
 彼女は『空』を知っていて、『空』を描いた。私には描くことは出来ないが、彼女と同じように『空』を知っている。それは私の心の中を満たし続けているもの。彼女からもらったものではあるけれど、今は確かに、自分のものだ。
 だから私は、彼女に強く惹かれている。手を伸ばしたくなる。それは、憧れだから。
 頭痛から逃れるように、窓の方へ視線を変えた。
 鳥が飛んでいる。向かい風を受けて、高く舞っている。
 だんだんと鳥の影が遠くなっていく。ささいな寂寞が、ざらざらとした表面で私の心を撫でた。やすりみたいに。


  ♪


「悠、大丈夫? 夕食、残してたけど」
「……うん、ちょっと食欲がないだけ。大丈夫だよ」
 千恵は優しい。いつでも私のことを気にかけてくる。彼女がルームメイトで良かったと、本当に思う。
「また、頭痛?」
「……ちょっと、ね」
 入学したての頃、私ははまだ頭痛に悩まされていて、学校を早退することも珍しくなかった。そんな私をルームメイトの千恵がいつも助けてくれていた。体調を崩すたびに看病してくれたし、いつも授業のノートを見せてくれていた。
「ありがとうね。千恵はいつも優しい。どうして?」
「悠が優しいから。私も見習わなきゃってなる」
「……わたしはべつに、優しくないと思うけど」
 どちらかといえば、余裕がなくて薄情なほうだと思う。いつも自分のことで精一杯だから。
「覚えてる? 去年、わたしが風邪を引いた時のこと。39度くらい出ちゃって」
「えっと……うん」
 去年の冬、千夏が高熱を出して寝込んでしまった時のことだ。ちょうどクリスマスにかけてだった。
「聖夜祭にも出ないで、私のそばにいてくれたでしょ。慌てふためいた感じで、どうしたらいい、どうしたらいいって。パーティの食事も部屋まで持ってきてくれてさ。食べれなかったけどね」
 千恵がからっとした笑みを浮かべる。私は千恵の、この表情が好きだ。
「病気で寝てたわたしよりも、ずっと大変そうにしてたの。今だから言うけど、あれ、ちょっとおもしろかった」
「ひ、ひどい。千恵っていつも意地悪」
 私が怒るのも千恵にとっては面白いらしかった。いつもそうだ。
「雨宮さんと同じクラスだからって、別に無理に関わる必要なんてないんだからね」
「……うん」
「近づけなくたって、それはそれで今まで通りでしょ? 憧れと好きは違ったりするものなの」
「……そうだね、そうだよね。ありがとう、千恵」
「なんて、分かったようなこと言ってみただけ」
 ……そういうけれど。
 今まで通りなんかじゃない。今は彼女が、近い距離にいる。
 手が届く場所にいる。
 だというのに私の身体はすっかり錆びついていて、手を伸ばせない。私は……どうしてこんなに臆病なのだろう。
 手が届くはずの距離だから、気持ちだけがどんどんと膨れ上がってるんだ。やっと気づいた。
 大きく、重く、いやらしいほどに、胸の奥でもたげている。焦がすような温度を持って、喉の奥を焼こうとしている。
 もう、今まで通りなんかじゃなかった。
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