カクテル
2年前、彩也香は縁もゆかりもないこの土地へ、仕事の為に引っ越してきた。
友達のいない彩也香の休日は、部屋の中で過ごすか、電車で1時間ほど離れた街でぶらぶらするか、だいたいはそんなものだった。
最初は足を運ぶ場所も目にするものも全て初めてで刺激があったが、同じ季節を2回も繰り返すと、新鮮さにも陰りがさす。
大学時代の知り合いも最初の内は仕事のハードさ環境の変化へのストレスで、お互いを励ましあう様に頻繁に連絡を取っていた。それも徐々に彼らにも生活スタイルへの適合と各々の生活リズムが食い違ってきて、定期的な報告会はしだいに無くなっていった。
素敵なカフェに行き美味しいランチを食べても、テレビで話題の映画を観に行って心がワクワクしても、新しい服を身に着けてお出かけをしてみても、帰路に着く時には彩也香の気持ちは穴の開いた風船のようにしぼんでいた。
そんなある日、社会人になって自由に使える経済力もついてきて、彩也香は小さな町の駅の近くにあるバーに足を運んでみた。
広くない店内で、狸のような顔をしたマスターが、無駄のない所作でカウンターに座るように勧めてくれた。
「何にされますか?」
もう一人のバーテンダーが彩也香にメニューを差し出した。
「バーに来るのは初めてで・・・お酒の種類もよく分らないので、お任せします。」
バーの扉が開く音がした。
彩也香同様に、マスターがカウンターに座るように促す。
彩也香の二つ隣の席に、サラリーマン風の男が座った。
この漁師町でこんなスーツをきちんと着ている人を見るのは珍しい。
役所に勤めている人だろうか。
彩也香はそんな事を考えながら、客の男を横目で盗み見る。
黒髪の、切れ長な目が印象的だ。
「今日もご苦労様ですね。」
マスターが男に話しかける。常連なのだろうか。
「ありがとうございます。なかなか施設の人との話し合いが長引いていますが、何とか今年の冬にはイルミネーション、実現できると思いますよ。」
男性はゴッドファーザーを注文しながら、スーツの上着を脱いだ。
30代半ばくらいだろうか。
「イルミネーション・・・」
彩也香の独り言は、男性の耳にしっかりと届いていた。
「そう、お嬢さん。こちらの方かな?
海岸通りを南に下っていくと、アトラクション施設があるの、知ってます?」
もちろん知っている。この町の観光スポットとしてまず誰もが名を上げるアトラクション施設だ。都会のそれと比べたら、置いてあるアトラクションもインショップもそれほどの事はないが、家族連れでこっちに旅行に来た時は、必ずと言っていいほど、その施設に足を運ぶ。逆をいえば、そこしか行くところが無いのだが。
「私は東京でいくつか事業をしていてね、あるご縁であのアトラクション施設のオーナーと知り合って、地域活性事業の一環として、あの施設でイルミネーションの設営を頼まれているんです。あ、これ名刺です。」
五十嵐と名乗る男性は、自分が数か月前から足繁くこの町に通っている事、オーナーはイルミネーション事業を期待しているが、施設の上役達がいささか保守的で、ようやく今日事業進展の説得ができた事、この町の海鮮はとても美味しいが、漁師たちの口は聞くに耐えないほど悪い事、前回訪れたスナックの女性の化粧が厚すぎた事など、楽しそうに彩也香に話した。
「このバーは、私がこの町に来て2回目の時に見つけたんですが、とても気に入っているんです。出してくれるお酒や料理はもちろん美味しいし、こんな田舎町にはもったいないくらい雰囲気も落ち着いていて素晴らしい。」
マスターが細い目をいっそう細めて五十嵐に礼を言った。
「しかも、こんな素敵なお嬢さんと一緒にお酒が飲めるなんて、今夜は特に最高だ」
ドラマのような時間だと彩也香は感じた。少し遠くから、冷静にこの状況を観察していた。
「今日はとてもいい気分なんだ。けれど、この幸せな気持ちを話せる人がいなくて、今日あなたに聞いてもらえて、とても嬉しいよ。」
心がざわつくのが、手に取るようにわかった。
そこから、1ヶ月に3回ほどの頻度で五十嵐は町を訪れた。
その度に彩也香はあのバーに行き、お互いの近況を語り合った。
彩也香は仕事の事。休日はどこへ行き、何を食べ、何を見て、何を感じたか。
誰かに聞いてもらえることで、彩也香の心は躍った。
「今度、イルミネーションのテスト点灯があるんです。彩也香さん、良かったらいらっしゃいませんか?」
彩也香の答えは一つしか無かった。
夏が過ぎ去り、まだ冬が顔を見せるのには早い頃、彩也香と五十嵐はアトラクション施設に臨時で設置された高台から、光り輝くイルミネーションを眺めた。
彩也香の中でパチパチと暖かな感情がはじけていた。
「とても綺麗です」
五十嵐がほほ笑む。いつも見せる笑顔よりも、もっともっと大人びて見えた。
「こんな素敵な事業に関わらせてもらえて本当に良かった。
夢のように楽しい時間でした。」
五十嵐が彩也香の手に自分のそれを重ね合わせる。
彩也香を見つめる五十嵐の瞳に、彩也香は彼を見つける事ができなかった。
「五十嵐さん・・・」
「彩也香」
2人はそっとお互いの背中に腕を回し、一呼吸置いて、しっかり抱きしめあった。
朝、彩也香はカーテンの隙間から落ちるまぶしい朝日で目が覚めた。
ホテルの大きなベッドの中で、たった一人で横たわっている。
下腹部の鈍い痛みが、昨夜の交わりを鮮明に思い出させる。
薄い膜で覆われているみたいに、頭がぼーっとする。
「・・・いが・・・らしさん」
返事は無い。頬に添えられた彼の掌のぬくもりは、今もそこにある。
彩也香の視界が、彼女の意図しないところで歪む。
遠くで、波の音が聞こえる。
それ以降、五十嵐はこの町を訪れていない。
いや、来ているのかもしれないが、彩也香の携帯に五十嵐からの連絡が来ることは無かった。
アトラクション施設のイルミネーションは大きな目玉となり、都心から気軽に足が運べて、なおかつ広大な土地でここまで立派なイルミネーションが見られるのはなかなか無いと人気を呼んだ。今まで夏場しか活気を見せなかった小さな漁師町が、冬場の観光客数が増えた事により、新たな賑わいが生まれた。
数カ月経ち、彩也香は迷いのない足取りでバーの扉をくぐり、カウンターへと腰を下ろした。
「いらっしゃい、彩也香さん」
バーテンダーの森拓斗が控えめな笑顔で出迎える。
「こんばんは、拓斗さん」
彩也香はカシスソーダを頼んだ。初めて彩也香がバーに来店した時、拓斗が勧めたカクテルだ。彩也香はこれが気に入って、毎回最初に頼むカクテルとなった。
「今日、マスターはいないの?」
「協会の集まりが少し長引いているみたいで、もう少ししたら来ますよ」
「そう」
しばしの沈黙後
「あの後、やはり五十嵐さんには会えていませんか?」
彩也香は上目づかいで拓斗の表情をうかがった。少し緊張している。
彩也香より3歳年上の拓斗は、冷静な性格ではあるが、少々童顔な事もあって、まだバーテンダーとしての貫録は出ていない。
「会っていません。たぶん、もう会う事も無いと思います。
五十嵐さんと一緒に夜を過ごした時、なんだか、そんな気がしました。」
拓斗は何か言いたそうにしたが、結局は彼の中でしかるべき言葉は見つからなかったらしい。
「でも、このバーで彼といろんな事をお話しさせてもらったのは、本当に幸せでした。人に何かを伝える楽しさを大人になってこんなに感じられたのは、とても良かったです。」
彩也香はカクテルに視線を落とし、愛おしそうにグラスの淵をなぞった。
「あの」
「はい?」
彩也香が顔を上げると、先ほどよりも緊張の色が濃い拓斗がいた。
「・・・拓斗さん?」
「もし良ければ、これから彩也香さんがお話ししたい事は、僕が聞いてもいいですか?」
「・・・え?」
小さな漁師町の小さなバーでの出来事。
新しい季節が、かすかなカシスの匂いと共に訪れていた。
友達のいない彩也香の休日は、部屋の中で過ごすか、電車で1時間ほど離れた街でぶらぶらするか、だいたいはそんなものだった。
最初は足を運ぶ場所も目にするものも全て初めてで刺激があったが、同じ季節を2回も繰り返すと、新鮮さにも陰りがさす。
大学時代の知り合いも最初の内は仕事のハードさ環境の変化へのストレスで、お互いを励ましあう様に頻繁に連絡を取っていた。それも徐々に彼らにも生活スタイルへの適合と各々の生活リズムが食い違ってきて、定期的な報告会はしだいに無くなっていった。
素敵なカフェに行き美味しいランチを食べても、テレビで話題の映画を観に行って心がワクワクしても、新しい服を身に着けてお出かけをしてみても、帰路に着く時には彩也香の気持ちは穴の開いた風船のようにしぼんでいた。
そんなある日、社会人になって自由に使える経済力もついてきて、彩也香は小さな町の駅の近くにあるバーに足を運んでみた。
広くない店内で、狸のような顔をしたマスターが、無駄のない所作でカウンターに座るように勧めてくれた。
「何にされますか?」
もう一人のバーテンダーが彩也香にメニューを差し出した。
「バーに来るのは初めてで・・・お酒の種類もよく分らないので、お任せします。」
バーの扉が開く音がした。
彩也香同様に、マスターがカウンターに座るように促す。
彩也香の二つ隣の席に、サラリーマン風の男が座った。
この漁師町でこんなスーツをきちんと着ている人を見るのは珍しい。
役所に勤めている人だろうか。
彩也香はそんな事を考えながら、客の男を横目で盗み見る。
黒髪の、切れ長な目が印象的だ。
「今日もご苦労様ですね。」
マスターが男に話しかける。常連なのだろうか。
「ありがとうございます。なかなか施設の人との話し合いが長引いていますが、何とか今年の冬にはイルミネーション、実現できると思いますよ。」
男性はゴッドファーザーを注文しながら、スーツの上着を脱いだ。
30代半ばくらいだろうか。
「イルミネーション・・・」
彩也香の独り言は、男性の耳にしっかりと届いていた。
「そう、お嬢さん。こちらの方かな?
海岸通りを南に下っていくと、アトラクション施設があるの、知ってます?」
もちろん知っている。この町の観光スポットとしてまず誰もが名を上げるアトラクション施設だ。都会のそれと比べたら、置いてあるアトラクションもインショップもそれほどの事はないが、家族連れでこっちに旅行に来た時は、必ずと言っていいほど、その施設に足を運ぶ。逆をいえば、そこしか行くところが無いのだが。
「私は東京でいくつか事業をしていてね、あるご縁であのアトラクション施設のオーナーと知り合って、地域活性事業の一環として、あの施設でイルミネーションの設営を頼まれているんです。あ、これ名刺です。」
五十嵐と名乗る男性は、自分が数か月前から足繁くこの町に通っている事、オーナーはイルミネーション事業を期待しているが、施設の上役達がいささか保守的で、ようやく今日事業進展の説得ができた事、この町の海鮮はとても美味しいが、漁師たちの口は聞くに耐えないほど悪い事、前回訪れたスナックの女性の化粧が厚すぎた事など、楽しそうに彩也香に話した。
「このバーは、私がこの町に来て2回目の時に見つけたんですが、とても気に入っているんです。出してくれるお酒や料理はもちろん美味しいし、こんな田舎町にはもったいないくらい雰囲気も落ち着いていて素晴らしい。」
マスターが細い目をいっそう細めて五十嵐に礼を言った。
「しかも、こんな素敵なお嬢さんと一緒にお酒が飲めるなんて、今夜は特に最高だ」
ドラマのような時間だと彩也香は感じた。少し遠くから、冷静にこの状況を観察していた。
「今日はとてもいい気分なんだ。けれど、この幸せな気持ちを話せる人がいなくて、今日あなたに聞いてもらえて、とても嬉しいよ。」
心がざわつくのが、手に取るようにわかった。
そこから、1ヶ月に3回ほどの頻度で五十嵐は町を訪れた。
その度に彩也香はあのバーに行き、お互いの近況を語り合った。
彩也香は仕事の事。休日はどこへ行き、何を食べ、何を見て、何を感じたか。
誰かに聞いてもらえることで、彩也香の心は躍った。
「今度、イルミネーションのテスト点灯があるんです。彩也香さん、良かったらいらっしゃいませんか?」
彩也香の答えは一つしか無かった。
夏が過ぎ去り、まだ冬が顔を見せるのには早い頃、彩也香と五十嵐はアトラクション施設に臨時で設置された高台から、光り輝くイルミネーションを眺めた。
彩也香の中でパチパチと暖かな感情がはじけていた。
「とても綺麗です」
五十嵐がほほ笑む。いつも見せる笑顔よりも、もっともっと大人びて見えた。
「こんな素敵な事業に関わらせてもらえて本当に良かった。
夢のように楽しい時間でした。」
五十嵐が彩也香の手に自分のそれを重ね合わせる。
彩也香を見つめる五十嵐の瞳に、彩也香は彼を見つける事ができなかった。
「五十嵐さん・・・」
「彩也香」
2人はそっとお互いの背中に腕を回し、一呼吸置いて、しっかり抱きしめあった。
朝、彩也香はカーテンの隙間から落ちるまぶしい朝日で目が覚めた。
ホテルの大きなベッドの中で、たった一人で横たわっている。
下腹部の鈍い痛みが、昨夜の交わりを鮮明に思い出させる。
薄い膜で覆われているみたいに、頭がぼーっとする。
「・・・いが・・・らしさん」
返事は無い。頬に添えられた彼の掌のぬくもりは、今もそこにある。
彩也香の視界が、彼女の意図しないところで歪む。
遠くで、波の音が聞こえる。
それ以降、五十嵐はこの町を訪れていない。
いや、来ているのかもしれないが、彩也香の携帯に五十嵐からの連絡が来ることは無かった。
アトラクション施設のイルミネーションは大きな目玉となり、都心から気軽に足が運べて、なおかつ広大な土地でここまで立派なイルミネーションが見られるのはなかなか無いと人気を呼んだ。今まで夏場しか活気を見せなかった小さな漁師町が、冬場の観光客数が増えた事により、新たな賑わいが生まれた。
数カ月経ち、彩也香は迷いのない足取りでバーの扉をくぐり、カウンターへと腰を下ろした。
「いらっしゃい、彩也香さん」
バーテンダーの森拓斗が控えめな笑顔で出迎える。
「こんばんは、拓斗さん」
彩也香はカシスソーダを頼んだ。初めて彩也香がバーに来店した時、拓斗が勧めたカクテルだ。彩也香はこれが気に入って、毎回最初に頼むカクテルとなった。
「今日、マスターはいないの?」
「協会の集まりが少し長引いているみたいで、もう少ししたら来ますよ」
「そう」
しばしの沈黙後
「あの後、やはり五十嵐さんには会えていませんか?」
彩也香は上目づかいで拓斗の表情をうかがった。少し緊張している。
彩也香より3歳年上の拓斗は、冷静な性格ではあるが、少々童顔な事もあって、まだバーテンダーとしての貫録は出ていない。
「会っていません。たぶん、もう会う事も無いと思います。
五十嵐さんと一緒に夜を過ごした時、なんだか、そんな気がしました。」
拓斗は何か言いたそうにしたが、結局は彼の中でしかるべき言葉は見つからなかったらしい。
「でも、このバーで彼といろんな事をお話しさせてもらったのは、本当に幸せでした。人に何かを伝える楽しさを大人になってこんなに感じられたのは、とても良かったです。」
彩也香はカクテルに視線を落とし、愛おしそうにグラスの淵をなぞった。
「あの」
「はい?」
彩也香が顔を上げると、先ほどよりも緊張の色が濃い拓斗がいた。
「・・・拓斗さん?」
「もし良ければ、これから彩也香さんがお話ししたい事は、僕が聞いてもいいですか?」
「・・・え?」
小さな漁師町の小さなバーでの出来事。
新しい季節が、かすかなカシスの匂いと共に訪れていた。
※会員登録するとコメントが書き込める様になります。