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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第13話

 しばらく歩くと、街外れになり、田畑が増えはじめ、その街と田園地帯の境目のような場所に、耐震耐火構造らしき、どっしりとした二階建ての建物が見えてきた。そのたたずまいは、彼女の言った砦という言葉を連想させた。
 電柱看板の矢印と距離によると、その建物が「特別養護老人ホーム悠寿美苑」であるらしい。
 土地代が安いから郊外に建てたのか、静かでのどかな場所を探してここにしたのか判断がつかないが、直次には老人ホームが建つのにふさわしい場所のように思えた。
 なんとなく直次は悠寿美苑の敷地の手前で立ち止まり、辺りを見回した。
 広い駐車場には車が半分ほど停まり、ほとんどが悠寿美苑と大きな文字で書かれ、他にも何やら小さな文字で書かれていた。それに加えて、大型車には車椅子の青いマークがある。
 玄関はちょっとしたホテルの入口のように見えた。特に車寄せが広めに取ってある。おそらく雨の日の高齢者の乗り降りを想定しているのだろう。
 建物自体は、ホテルと病院を併せたような、生活感と機能性を感じさせた。
「ここが……きみの言っていた老人ホームか……」
「ええ、そうよ、直次くん。……ようこそ、特別養護老人ホーム悠寿美苑へ」

「じゃあ、わたし、荷物を置いてくるから、直次くんはここで待ってて」
「ああ、わかった」
 特別養護老人ホーム悠寿美苑の玄関で、来客用の上履きに履き替えて受付を済ませた直次は、おむつを奥へと運ぶ寿美花をロビーで見送った。
 初めて入った老人ホームを、直次は興味深そうに見回した。観葉植物が多く、風景画がたくさん飾られている。
 どことなく病院を思わせるが、それだけではない。医療機関である病院にはない独特の雰囲気が老人ホームにはあった。
 ただ突っ立って待つのも暇なので、ゆっくりと周囲を観察しながら歩きはじめた。
 手すりのある廊下や床の質感は、病院に近い。けれど、病院なら見かける医師や看護師の姿はなく、代わりにエプロンをつけた職員と老人たちをたまに見かけた。
 ロビーから階段をのぞくと、踊り場に大きな絵画が見えた。青い空の下に一面に広がる向日葵畑。まぶしいほど原色に近い無数の向日葵が、キャンバスの端から端まで埋めつくしている。向日葵と蒼天の対比が色鮮やかな、油絵の風景画だった。
 さらに少し歩くとロビーと廊下の間あたりに、今度は桜の日本画が飾られていた。
「風景画ばかりだな……ん?」
 悠寿美苑の至る所に飾られた絵を順番に鑑賞していた直次は、視線を感じてそちらを振り向いた。
 ちらりと、しゃれた空色の上着を着た、半白の髪をオールバックにした老人が、廊下の角に消えるのが見えた。確かにこちらを観察するような視線だった。直次は古武術を習っているため、この手の勘が鋭い。
 風景画ばかりを見ているのも飽きてきたので、直次はなんとなく気になった視線の主が消えた方向へと歩いていった。
 湿った生暖かい空気を感じて、鼻を動かした。銭湯の匂いがする。
 やがて「一般浴室」と「特殊浴室」と書かれたふたつの入口が見えた。特殊浴室という聞き慣れない言葉に目を留めていると、ふいに一般浴室から風呂桶が叩きつけられるような鋭い音がした。
「ギャア――ッ!」
 悲鳴が上がった。一般浴室のほうからだ。
 直次は顔色を変えて、一般浴室に飛びこんだ。そこは脱衣室で、音がしたのはその向こうの浴室かららしい。
 開け放たれた扉から浴室を覗きこむ。
 一般浴室は、「一般」と名づけられているが、想像とかなり違っていた。基本は銭湯に近いのだが、銀色の手すりが四方をぐるりと取り囲んでいるし、浴槽は壁で囲うのではなくプールのように床下にある感じだった。
 その浴槽のそばに、ひとりの着衣の老人が、こちらに背を向けて座っていた。あの見かけた男性だ。先ほどの悲鳴は彼が発したものだろう。
 だらりと弛緩したように、浴室用の椅子に腰掛けている。銭湯にあるような簡単な作りの椅子なら、後ろや横に倒れ込むのだが、この老人ホームで使われている浴室用椅子には、背もたれと手すりがついていて倒れないようになっている。しかも、体の向きを変えやすいように回転椅子になっていた。
「あ、あのー」
 直次は軽く声をかけた。これで何か反応があってくれと願うような気持ちを込めたのだが、返ってきたのは完全な沈黙だけだった。
 ゆらゆらと揺れる湯気の向こうに、ぴくりとも動かず座り込む老人はなんとも不吉だ。
 意を決して、直次は一般浴室に足を踏み入れた。浴槽のそばにいる老人に、恐る恐る近づく。何度も声をかけようと思うのだが、舌が恐怖で動かない。
 声もかけたし、こうして近づいているんだから気づかないわけがないよな? それに何より最初に聞こえたあの鋭い物音も気になるし……まさか死んで……。
 ごくりと、唾を飲みこみ、ついに背中に触れられるほどまで近づいてしまった直次は、黙ったままの老人の肩に手を軽く乗せた。
「あの……大丈夫……で」
 すか、と続けようとした瞬間に、直次が手を置いたためだろうか、回転椅子がくるりと回った。
 こっちを向いた老人は、カッと、白目を剥き、鼻と口から血を流していた。
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