第4話
寿美花はびくりとし、それが要の声だと気づいて早足で現場に向かった。
駆けつけた悲鳴のあった居室には、腰を押さえてうずくまっている要と、茫然と立っている新人介護職員、そして、車椅子に座っている巨躯の男性利用者がいた。
その男性利用者はこの居室の入居者で、元大相撲の関取、俵山老人だ。一昨年前、脳出血により半身不随となり、左半身が麻痺している。ベッドと車椅子の移乗には介助が必要だった。身長、体重は、高齢者になると減少傾向にある。それは例え元関取でも変わらない。往年の彼を知る者から見れば相当痩せてきてはいたが、それでもかなりの巨体だった。
彼の車椅子は、ベッドの横に三十度の角度でくっつけられていて、その肘掛け(アームサポート)が後ろにはね上げられているため、介護に関する知識を持つ寿美花には、何があったのかすぐにわかった。介護職員の要は、俵山老人のベッドから車椅子への移乗介助の最中に腰を痛めたのだ。
「大丈夫ですかっ? 要さん! しっかりして下さい……そうだ! 確か今日は非常勤のお医者様が来て下さる日ですし、呼んできます!」
きんきらしたクリスマス会の会場とは対照的に、カーテンを閉めたままの薄暗い室内だったが、そこでもはっきりとわかるほど寿美花は青ざめていた。震える唇をかみしめて、急いで寿美花は居室を出た。
静かな街の一角だった。
冬木の落とした枯れ葉だけが、濁り酒のにごりのように街の底に滞り、かさかさと、ときおり音を立てた。
その音がくっきりと輪郭を持って聞こえるほど、静閑だった。
つむじ風が起こり、枯れ葉を見えない誰かが掃き清めたかのように、路面から拭い去り、風の通り道の脇にどけた。
そこは門だった。
一見すると、山門のように見えたかもしれない。
古び、忘れ去られたようなたたずまいを見せている。
この閑静な街外れで、さらに寂として物音ひとつ立てない。そのような感じである。
風雨によって黒ずんだ杉材の門は、老婆の皺のように木目が深く刻まれ、苔むした瓦屋根を支えている。
その門柱の左に、立派な檜の板が掛けられていた。
「日向(ひゅうが)風姿流(ふうしりゅう) 古武術道場」
太い筆で流麗に、そう書かれていた。
長い年月を感じさせる板壁に、かまぼこ板のような木製の名札が、釘に引っかて掛けてある。達筆な文字で――
師範
日向栄(さかえ)
師範代
日向直一(なおいち)
門下生
日向直(なお)次(つぐ)
このように書かれた木札が並んでいる。
右手を伸ばして二番目の門下生の名札を釘から外して、左手で三番目の門下生の名札を取って右にひとつ詰めた。三番目から二番目の門下生になった者の名札は、かまぼこ板というよりも廊下の板の一部を切りとったように長く、アビゲイル・ウォーターズと書かれている。
一歩、名札の並ぶ壁から離れて、左を見ると、ずらりと名札をかけるための釘が、上下二段で数十も並ぶ。名札はそこにはひとつもない。
名札掛けによれば、門下生はたったふたりだけ。
いま道場には、高校生くらいの少年がひとりしかいない。
白い柔道着を着て、柔道着の下穿きの上に黒い袴を穿いている。日向風姿流古武術の稽古衣である。
先ほど外した名札を持つ右手の袖口から、ほつれた糸が垂れさがっている。他にも襟や袴の裾も傷んでおり、稽古の厳しさは疑いない。
冬の凜とした冷たい板間を足裏に感じながら、少年は立って名札掛けを長い間じっと見つめていた。
――クリスマスなのに古武術の稽古だなんて馬鹿じゃないすか?
ふいに人を小馬鹿にしたような男の声が蘇ってきた。つい三十分ほど前に受けた電話の声だ。
電話の主は、この道場にいた三人の門下生の内のひとりで、道場をやめると連絡してきた。直接は来ず、カラオケボックスかどこかで友人と騒ぐ合間を縫ってケータイからかけてきたらしい。騒々しい雑音が混じっていた。
武道に興味のない人間でも知っている有名な流派の空手道場で、初段の一歩手前までいったことが自慢のその男はプライドが高かった。こんなさびれた古武術道場なら自分が最強だろうと思って入門したらしいが、結果は最弱だった。自分の母親と同世代の小柄な女師範に何度も投げ飛ばされ、ほぼ同時に入門してきた女性外国人の門下生に手も足も出ずこっぴどく負けて、ショックでろくに稽古に来なくなるほどだった。その腹いせもあって、あの台詞なんだろうとわかってはいた。
けれど、それでも胸に刺すような痛みが走った。あの捨て台詞に共感するところが少なからずあったからだ。
少年が後ろを振り返ると、外からの光だけで薄暗いがらんとした道場の板間が広がっていた。
右から左に「日向風姿流」と太い筆で流れるように書かれた額の下、空きだらけの名札掛けを背後に、静寂に満ちた道場を見ている少年の右手に強い力が入って、やめていった門下生の名札が軋んだ。
口をへの字に曲げ、息を止めるようにして怖い目で、道場の何もない空間を睨みつけた。
「遅くなって申し訳ない。それでは稽古を始めようか、直次」
道場の左奥から、男性のような口調の女の声が聞こえてきた。
駆けつけた悲鳴のあった居室には、腰を押さえてうずくまっている要と、茫然と立っている新人介護職員、そして、車椅子に座っている巨躯の男性利用者がいた。
その男性利用者はこの居室の入居者で、元大相撲の関取、俵山老人だ。一昨年前、脳出血により半身不随となり、左半身が麻痺している。ベッドと車椅子の移乗には介助が必要だった。身長、体重は、高齢者になると減少傾向にある。それは例え元関取でも変わらない。往年の彼を知る者から見れば相当痩せてきてはいたが、それでもかなりの巨体だった。
彼の車椅子は、ベッドの横に三十度の角度でくっつけられていて、その肘掛け(アームサポート)が後ろにはね上げられているため、介護に関する知識を持つ寿美花には、何があったのかすぐにわかった。介護職員の要は、俵山老人のベッドから車椅子への移乗介助の最中に腰を痛めたのだ。
「大丈夫ですかっ? 要さん! しっかりして下さい……そうだ! 確か今日は非常勤のお医者様が来て下さる日ですし、呼んできます!」
きんきらしたクリスマス会の会場とは対照的に、カーテンを閉めたままの薄暗い室内だったが、そこでもはっきりとわかるほど寿美花は青ざめていた。震える唇をかみしめて、急いで寿美花は居室を出た。
静かな街の一角だった。
冬木の落とした枯れ葉だけが、濁り酒のにごりのように街の底に滞り、かさかさと、ときおり音を立てた。
その音がくっきりと輪郭を持って聞こえるほど、静閑だった。
つむじ風が起こり、枯れ葉を見えない誰かが掃き清めたかのように、路面から拭い去り、風の通り道の脇にどけた。
そこは門だった。
一見すると、山門のように見えたかもしれない。
古び、忘れ去られたようなたたずまいを見せている。
この閑静な街外れで、さらに寂として物音ひとつ立てない。そのような感じである。
風雨によって黒ずんだ杉材の門は、老婆の皺のように木目が深く刻まれ、苔むした瓦屋根を支えている。
その門柱の左に、立派な檜の板が掛けられていた。
「日向(ひゅうが)風姿流(ふうしりゅう) 古武術道場」
太い筆で流麗に、そう書かれていた。
長い年月を感じさせる板壁に、かまぼこ板のような木製の名札が、釘に引っかて掛けてある。達筆な文字で――
師範
日向栄(さかえ)
師範代
日向直一(なおいち)
門下生
日向直(なお)次(つぐ)
このように書かれた木札が並んでいる。
右手を伸ばして二番目の門下生の名札を釘から外して、左手で三番目の門下生の名札を取って右にひとつ詰めた。三番目から二番目の門下生になった者の名札は、かまぼこ板というよりも廊下の板の一部を切りとったように長く、アビゲイル・ウォーターズと書かれている。
一歩、名札の並ぶ壁から離れて、左を見ると、ずらりと名札をかけるための釘が、上下二段で数十も並ぶ。名札はそこにはひとつもない。
名札掛けによれば、門下生はたったふたりだけ。
いま道場には、高校生くらいの少年がひとりしかいない。
白い柔道着を着て、柔道着の下穿きの上に黒い袴を穿いている。日向風姿流古武術の稽古衣である。
先ほど外した名札を持つ右手の袖口から、ほつれた糸が垂れさがっている。他にも襟や袴の裾も傷んでおり、稽古の厳しさは疑いない。
冬の凜とした冷たい板間を足裏に感じながら、少年は立って名札掛けを長い間じっと見つめていた。
――クリスマスなのに古武術の稽古だなんて馬鹿じゃないすか?
ふいに人を小馬鹿にしたような男の声が蘇ってきた。つい三十分ほど前に受けた電話の声だ。
電話の主は、この道場にいた三人の門下生の内のひとりで、道場をやめると連絡してきた。直接は来ず、カラオケボックスかどこかで友人と騒ぐ合間を縫ってケータイからかけてきたらしい。騒々しい雑音が混じっていた。
武道に興味のない人間でも知っている有名な流派の空手道場で、初段の一歩手前までいったことが自慢のその男はプライドが高かった。こんなさびれた古武術道場なら自分が最強だろうと思って入門したらしいが、結果は最弱だった。自分の母親と同世代の小柄な女師範に何度も投げ飛ばされ、ほぼ同時に入門してきた女性外国人の門下生に手も足も出ずこっぴどく負けて、ショックでろくに稽古に来なくなるほどだった。その腹いせもあって、あの台詞なんだろうとわかってはいた。
けれど、それでも胸に刺すような痛みが走った。あの捨て台詞に共感するところが少なからずあったからだ。
少年が後ろを振り返ると、外からの光だけで薄暗いがらんとした道場の板間が広がっていた。
右から左に「日向風姿流」と太い筆で流れるように書かれた額の下、空きだらけの名札掛けを背後に、静寂に満ちた道場を見ている少年の右手に強い力が入って、やめていった門下生の名札が軋んだ。
口をへの字に曲げ、息を止めるようにして怖い目で、道場の何もない空間を睨みつけた。
「遅くなって申し訳ない。それでは稽古を始めようか、直次」
道場の左奥から、男性のような口調の女の声が聞こえてきた。
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