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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第46話

「だ、大丈夫だ、寿美花……」
 直次は顔をしかめながらも、自分の胸に抱きしめている、小柄なまっ白な老婆が無事なのを確かめた。髪も肌もまっ白な小柄な彼女は、猫のように丸くなって直次の胸の中にいる。
 だが、直次の踏んばった右足は、嫌な角度に曲がっていた。
 脂汗が浮かぶのも無視して、何事もなかったかのように、そっと佐藤おばあちゃんを抱えて二階に戻って、床に下ろした。
「の……直次くん?」
 直次の尋常でない様子に、寿美花は戸惑ったように声をかけた。彼の額には脂汗が浮かび、唇を噛みしめている。
「た、たいしたことない」
 ふたりがしゃべっているうちに、物音を聞きつけて、大勢の介護職員や利用者たちが集まってきた。寿美花は事情を説明した。佐藤おばあちゃんがひとりで車椅子で移動している時、誤って階段の近くを移動して、車椅子からつんのめって落ちそうになった。たまたまそばにいた直次くんが駆けだして、階段の途中で華麗に受けとめた。佐藤おばあちゃんはまったく怪我はない。落ちたのは車椅子だけだ、と。
 念のため医務室に運ばれる佐藤おばあちゃんは、「ありがとうございます」と何度も手を合わせて直次にお礼を言った。この悠寿美苑の「マドンナ」と一部の老人たちから言われている佐藤おばあちゃんの危機を間一髪で救ったことで、直次に感謝する老人たちもいた。彼らも口々にねぎらいの言葉を口にして、去っていった。
 静まり返った二階の階段前で、直次はずっとお礼を言われているい間中浮かべていた笑顔をやめて、額の脂汗をぬぐった。
「少ししたら……佐藤おばあちゃんの診察が終わったくらいに、医務室に行くよ」
「……やっぱり怪我したの、直次くん?」
「ああ、ひねったっぽい。正直、こんなヘマをしたのは生まれて初めてだ」
 直次は悔しそうに呟いた。失敗の悔しさもあるが、何も奉納試合の前日に怪我などしなくてもいいのにという苦い思いが強い。
「ど、どうしよう……?」
 直次以上に、寿美花は慌てた。
「どうしようもない。奉納試合は明日だ。出場か棄権かの二択なら、俺は出場する」
「直次……くん……」
 以前なら古武術の稽古だって逃げ出すような彼だ。怪我をしたともなれば、試合など間違いなく棄権していただろう。その成長を知っている寿美花は、喜んでいるような、悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべた。
「いくらタイミングが際どかったとはいえ、あんな小柄な老婆を助けるのに、足をくじくなんて、日向風姿流古武術の名折れだな」
「そ、そんなことないよ! わたしなんて、悲鳴を上げることさえできないタイミングだったんだから……」
「いや。正直、俺は浮ついてた、舞い上がってたんだと思う。……その」
 と口ごもり、寿美花の顔を見つめた。特に唇あたりを。寿美花の顔が赤くなる。ちょっと前にも人のいない悠寿美苑の隅でほんの少しキスしたばかりだった。
「そ……そう。なるほどね」
「うん、そうさ……どんな時でも平常心でいられなかった自分が悪い」

 寿美花は、直次を医務室に連れて行き、それほど重い怪我ではないが、かといって明日格闘技の試合を行うなど問題外だという医師の意見を聞いてすぐ悠寿美苑を出た。直次には黙って、日向風姿流古武術道場へと向かった。
 いつ来ても戸惑いを覚える古めかしい門を抜け、母屋で呼び鈴を鳴らす。何度か鳴らしてしばらく待っても、誰もやって来なかった。
 勝手に敷地の中を歩き回るのも悪いかな、と思いつつも、おそらく道場だろうという直感が働いてそっちに向かった。なにせ明日は奉納試合なのだ。直次の言う体格にも才能にも恵まれた天才の兄でも、おそらく体を温めるくらいの稽古はしているだろう。
 道場に近づくにつれて、男のうなるような声と、叱責するような女性の声、外人の大声が聞こえてきた。
 そっと扉の開いた道場の中をのぞくと、そこには汗みずくになりながら、激しい稽古に励んでいる直次によく似た顔をした、ずっと体格が立派な日焼けした男性がいた。
 そのあまりの気迫と、稽古の凄さに、寿美花は思わず棒立ちとなった。
 こんなに稽古したら、明日の試合で立てなくなるんじゃないか? と素人の寿美花でさえ思う練習ぶりだった。
「あともう三十本っ! 追加だっ!」
「うっす!」
 師範である直次の母がそう言うと、直一は返事してさらに稽古の速度を上げた。師範のそばにいたアビゲイル・ウォーターズは、
「まさしくニンジャだってばよ!」
 と目を丸くしている。
「もう実力では、完全に師範代のほうが上になったわね」
 そんなふたりの声など聞こえないかのように、稽古を続ける直一。
 その姿を見て、自分がいったい何を言いにここまで来たのか、寿美花は忘れた。直次くんは怪我をしているから棄権させてほしい? それとも、直次くんは万全な体調じゃないから、手加減してくれないか? ……そんな台詞言えるわけがない。
 寿美花は今さらながらこの奉納試合にかける日向風姿流古武術の意気込みを知った。道場の経営は芳しくない。もともと門下生もほとんどいないに等しい。そんな中、大勢の人の前で、自分たちが研鑽した技術を見せる最高の機会。そして、おそらく最後のチャンス――。
 寿美花は結局、声もかけずに、日向家を後にした。
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