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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第37話

 振り返ると、その女と目が合った。
 傘を差しているスーツ姿の女だ。好地山涼子だった。
「あれ? そのださい稽古衣姿は、古武術道場の弟じゃない? 土地を売る気になって、私を捜しにでも来たのかしら」
 そんなわけはないだろ、とつっこむ気力もなく、好地山涼子を見つめる。ただ疑問が湧いて、自然と小さく口走っていた。
「どうして?」
「は? どうしてって何が? ああ、あの特養がヤバイってことの理由? 特別養護老人ホームってのはね、職員の構成はダントツに介護職員が多いのよ。その介護職員が減って、一人当たりの仕事量が増えて負担が増加しているの。知っているかどうか知らないけど、あの施設どんどん人が腰痛や激務を理由に辞めていってるわ。ま、負担が延々と増え続ければ、当然辞めざるを得ないわね。きちんと政府が定めた基準だけの介護職員はまだいるようだけど、はてさてこれから先はどうなることやら」
 彼女のまったくこっちを気遣わない台詞が、なぜだか直次には有り難かった。ずぶ濡れであること、なぜそんな格好でここにいるのかという理由、そんなことは一切訊ねず、一方的にしゃべっている。その元気というか、前向きさというものに、ほんのわずかにだが、力を分け与えてもらった気がした。
「どうして、って訊いたのは、なんで悠寿美苑のほうから来たのかってことで……」
「ああ。あそこは祖父が利用しているからよ」
 かなり意外な事実を、好地山涼子はあっさりと告げ、
「ところで、あんた何こんなところに突っ立ってるの? あんた、ばか?」
 傘を差しながら腕組みし、ずぶ濡れの稽古着姿の直次を見つめる。傘を傾けて雨をさえぎってくれる様子もなく、ただ平静な目でまっすぐにこちらを見つめてくる。
「あのお嬢ちゃんね、以前に道でばったり出くわした時に、上手いこと言ってたわ」
 悠寿美苑のほうを振り返るように、視線をそらして、
「『老人ホームは老後の最後の砦です!』だってさ、なかなか上手い表現よね。……砦ってのは自分から動けないし、こっちから行くしかないわよ? ま、あの砦になら、屋根とバスタオルくらいあるわよ」
 好地山涼子の横顔の目元が、少し赤い。どうやら気遣う台詞を言った自分に照れているらしい。それに気づくと、彼女が視線をそらした理由も照れ隠しらしいと気づいた。
 彼女は、しばらく直次を気遣うように見ていたが、ふいにやや後ろに視線を投げかけていた姿勢から、完全に後ろに首を振り向けた。
 遠くに見える老人ホームのシルエットの前を、傘を差して、閉じた傘を一本持った小さな人影が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。
 好地山涼子はちょっと微笑むと、無言で別れの挨拶もなく、さっさと直次の脇を通り抜けた。颯爽とした去り方だ。傘を貸すことも、それ以上気遣うこともなく。
 直次は、そんな好地山涼子を、振り返って眺めていた。少し、彼女のことを誤解していたのかもしれない。どう誤解していたのか、説明が難しかったが、思ったよりも悪い人物ではないように思えた。
「やっぱりいたわ……」
 すぐそばで少女の声がした。
 悠寿美苑のほうを向くと、膝に手をついて、肩で息をしている少女がいた。セーラー服姿の西園寺寿美花だった。はぁはぁと荒い息をしている。全力で走ってきたらしい。しばらくは呼吸を整えるので精一杯といった様子だった。
「よかったぁ。間に合って……」
 顔を上げた、まだ顔の赤い彼女は、直次を見つめて、
「二階の窓から、直次くんらしい人影が見えたから、もしかしたらと思って走ってきたの……」
 寿美花は傘を差していたが、早く走りすぎて、肩がずいぶん濡れていた。はい、これを使って、と彼女は言って、持っていた閉じた傘を差しだしてくれたが、その時になって直次がまるで水浴びをしたかのようにずぶ濡れなのに気づいた。
「うわっ! 直次くん、大丈夫! こんなに濡れてるなんて遠くからじゃわかならくて……。稽古衣を着てたから直次くんに違いないって思って急いできたんだけど……」
 稽古衣を着ていて良かったと、直次は初めて思った。子供の頃からこの目立って馬鹿にされることがたびたびあった格好を嫌っていたが。
「さあ、行きましょう」
 寿美花は、直次の手を握った。その手はとても温かかった。冷えた直次の手が、自然と温もりを求めるように、ぎゅっと握りしめた。
「もうてっきり引き返しちゃったかと思ったけど、まだいてくれたのね……」
 寿美花は、悠寿美苑に向かって、引っ張るように直次の手を引く。その顔には、いつもの彼女らしい笑顔が浮かんでいる。よく見れば、濃い疲労が浮かぶ顔だが、尋常じゃない様子の直次を気遣って、明るく振る舞っていた。
(あの好地山涼子のおかげだな。二階から下りてここまで走ってくる寿美花が間に合ったのは。あの女がいなかったら、とっくの昔に引き返して出会えなかっただろう)
 直次は、手に感じる寿美花のぬくもりを感じながら思った。
(それにアビーも。彼女が背中を押してくれたから、老人ホームの近くまで来ることができたんだ)
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