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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第36話

 兄の記録を、一年間休まず練習した直次が結局超えることができなかったのだ。
 その時、直次は、才能の壁というものを、努力の無意味さというものを感じとったのだ。
 ざばん!
 水しぶきの音と共に、いきなり川から何者かが上陸してきた。
 直次は、さすがにびっくりして後ずさった。
 が、すぐに気づいた。
 黒い忍者装束に、細い竹筒。
 アビゲイル・ウォーターズだ。
 黒い頭巾と口当てを取ると、アビゲイルはいきなり訊ねてきた。
「こんなところでナニしてるんだってばよ!」
「そりゃこっちの台詞だ!」
 叫び返しながら、馬鹿馬鹿しくなって笑った。
 金髪の白人は、その額に貼りついた髪から雫を落としている。さすがに寒かったらしく、がちがちと震えている。
「ムロン、ニンジャになるためのシュギョウだってばよ! スイトンのジュツにキまってるだろっ?」
「馬鹿か、おまえは! 忍者はいない。今の日本にはいないんだと、何度言ったらわかるんだ!」
 直次は少しイライラしてきた。
 努力の無駄を痛感し、無駄な努力ほど嫌いなものはないのに、対してアビゲイルのほうは文字通りまったくの無駄を毎日続けている。
「それはタテマエね? ワタシ、ニホンジンじゃない。だから、みんな、ニホンのヒミツであるニンジャ、カクしてる」
「隠してない! 本当にいないんだ!」
「ノー、ノー! カクしてもダメだってばよ! ワタシ、ニンジャになってやるだってばよっ!」
「無駄だ!」
「ムダじゃない!」
「いいや、無駄だったら無駄だ!」
「ムダじゃないだってばよっ!」
「絶対に無駄なんだっ! アビー、お前がどんなに努力しようが、信じこもうが、この今の日本に忍者なんていない」
 これまでここまできつく「忍者はいない」と直次がアビゲイルに向かって断言したことはなかった。おそらく師範の栄にしろ、アビゲイルの学校の同級生やバイト先の人々も同じだろう。
 初めてここまではっきりと「忍者はいない」と断言されて、アビゲイルは、直次が初めて見るほど真剣な顔をして黙りこんだ。
 その青い瞳は、まるで雨雲の中、一点だけ射しこんだ太陽の光や青空を連想させるほど静かに輝いていた。
「だったら、サイショになればいいだってばよ!」
「……え?」
 彼女が何を言っているのかわからず、直次は聞き返すように見つめた。
「イマ、ニホンにニンジャいない。だったら、このワタシが、ゲンダイのニホンでサイショのニンジャになってやるだってばよっ!」
「……はぁ?」
 もうわけがわからなかった。
 アビゲイルは日本が大好きで、忍者を崇拝し、だから、日本の忍者になりたいとずっと言っていた。そして、冬に水泳までして、厳しい修行に耐えて、努力してきた。だが、日本に忍者はいないのだと、きっと確信したはずだ。その時に出した答えが、自分こそが現代の日本初の忍者になってやるというものだった。金髪碧眼のカナダ人が、忍者? 直次はぽかんとした後、ふいに笑いだした。
 お腹を押さえて笑い転げそうになるほど笑って、笑いすぎてしゃがんだ。
 アビゲイルもいつしか一緒になって笑っていた。
 どのくらい笑っていたのかわからないが、自然とそれが途切れた。
 アビゲイルは、直次に向かって、
「ノリツグが、コブジュツのケイコ、キラいなら、キラいでいいとオモうだってばよ。ドージョーをナゲダシタイとオモってるなら、それもイイ」
 静かな口調でそう言い、
「でも、そんなノリツグを、ヒツヨウとしてくれているヒトもいるんじゃないのか?」
 彼女が、誰のことを言っているのか、直次はわかった。アビゲイルも寿美花と会っている。
「けど、喧嘩しちまったんだ」
「だったら、アヤマレばいいだってばよっ!」
 大きな手で背中を押される。
 力の抜けていた直次は、それだけで、一歩二歩歩きだした。
 本当に、謝っただけで許してくれるだろうか。ただ口も聞いてもらえず追い返されるだけなんじゃないのか。そんな不安がよぎっていたが、二歩進んだ足は、自然と三歩目、四歩目を刻んでいた。
 気づけば、とぼとぼとうつむきがちとはいえ、老人ホーム悠寿美苑に向かって歩いていた。
 遠く雨にかすむ悠寿美苑の二階建ての建物は、直次の心境がそう見せるのか、それとも初めて雨の中の悠寿美苑を見たためか、まるで別の施設のように思えた。「砦」と寿美花は言っていたが、まさしく外敵を拒絶するような気配を感じた気がした。
 直次の足が自然と止まる。もう少し歩けば、悠寿美苑に着く。そう考えたのがよくなかった。ここまでアビーに背中を押された惰性で、無心に歩いてきた。だから、ここまでこれたが、もう一歩も前に進めそうになかった。
 体は強いほうだが、雨に濡れた体は冷えて、くしゃみが出た。
(帰ろう)
 直次は、悠寿美苑に背を向けた。
(いや、もう帰る場所なんてなかったんだっけ……)
 そのままそこにしゃがみ込んでしまいそうになった。いったいどこに行けばいいのか。それがわからない。
「もう、ほんっとサイッテーね、あの特養は……。まだニュースになるような虐待事件なんかがないだけマシだけど。……結局、あれだけ人手が不足したらサービスもへったくれもないわ。まあ、あの人数で誠心誠意努力していることだけは認めてあげるけど。早々にもっと酷いことになるわね」
 背後からぶつぶつと不満を並べたてる女の声が聞こえてきた。
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