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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第35話

 並んで立つと、決して小柄というわけでないはずの直次が、小さく見える。兄はそれほどまでに大きかった。
「よし! んじゃあ、久々にやってみるか?」
 ぐっと、拳を握って、直一は直次に微笑んだ。
「ちゃんと稽古をやってたんだろう、直次? お前は俺の見たところ、才能がかなりある。なんていうかさ、新しい古武術の地平を切り開けるような……」
 そんな中国の広い大地を思い出すような遠い目をして語る兄の言葉など、右から左へ流れていた。
 直次の脇に脂汗が浮かぶ。
(もし……戦って……負けたら……惨敗してしまったら……)
 恐怖で足がすくみそうになる。
(俺は本当に「いらない」存在になるんじゃないか)
 疑問ではなく、確信を込めてそう思った。今までに兄と本気でやり合ったことなどない。だが、兄はやりたいのだろう。久々に見た弟が、どのくらい成長したのか、同時に自分が学んだ技がどのくらい通用するのかを。
 断ることは、できそうになかった。なぜならもう後ろに道などないのだ。寿美花の怒った顔が浮かぶ。そして、目の前には、古武術こそを第一とする、師範であり、母である日向栄もいる。逃げることなどできない。
 始め、と審判が叫ぶ合図もなく、もう勝負は始まっていた。古武術とは、常に戦場にいると思って戦うところに神髄がある。武道やスポーツのように、ストレッチやウオーミングアップなどをしてから戦ったりしない。極端な話、服装でさえ普段着で戦うべきだという考え方もある。殺し合いや命のやり取りをする戦いで、いちいち相手が、こちらが柔軟体操を済ませて着替えるまで待っていてくれるわけがない。
 兄の直一が、間合いから外れている、半歩分を、足の指先でにじり寄るようにして、詰める。
 と、同時に、直次は、その半歩分を不器用に後退することで、維持する。
 ここ最近は、あのチラシ作りをしていてトレーニングをサボりがちだった。そのうえ、寿美花と喧嘩したことで精神状態も波打つようになっている。
 直一は、静かな目で、弟を見つめつつ、また半歩分の間合いを詰めてきた。
 直次は、下がる。その呼吸がだんだん荒くなってきていた。ただ向き合っているだけなのに、兄の体から熱のように放射される圧力が恐ろしいほどだった。
 さらに半歩詰め、半歩下がりという状態が続く。いくら広い道場といえど、こうも下がり続ければ、いずれは壁にぶつかる。そんなことが頭に浮かばないほど、直次は追い込まれていた。
 直一は、ぐいぐいと攻めてくる。
 常に前進。先手必勝。
 それこそが兄のスタイルだったと、直次は思い出した。
 次の瞬間、直一は、思いきり踏み込んできた。
 直次はカウンターを狙うなど考えもせず、後ろに下がろうとしたが、後退より前進のほうが早い。
 あっというまに間合いを詰められ、柔道着の奥襟と袖を取られた。取られたと思った時には、自分の体が宙を舞っていた。次の瞬間には、板間に叩きつけられる衝撃と、痛みが襲ってきた。
 それらが去ると、頭上にある兄の顔が見えた。浅黒い顔には困惑が浮かんでいる。兄は勝利を喜ぶことなく、むしろ驚いた様子で、
「何かあったのか?」
 勝負の時の表情とは打って変わって、心配そうに訊ねてきた。とりあえず直次を立たせようと、太い腕を伸ばしてきたが、直次はその手を振り払って、立ち上がった。
 まだ多少ふらついたが、そのまま道場から駆けだした。
 直次の脳裏にはたった一つのことが繰り返し浮かんでいた。
(負けてしまった……それも惨敗だ! ……もうこの道場にも、老人ホームにも、どこにも自分の居場所はなくなった! もう自分に居場所などないのだ……っ!)
 母屋の玄関で、傘も取らず、一本歯の高下駄を引っかけて飛びだす。軒を出ると、大きな雨粒が顔面を叩く。もっと俺の体を叩けというように、そのまま目的地も決めずに無我夢中で走りだした。
「アアアアアアアアアッ!」
 訳の分からないことを喚き散らし、豪雨の中を走る。白く煙る視界を気にせずにひたすら足を動かす。
(俺は誰からも必要とされていない! 無価値な人間だ!)
 どしゃ降りの雨の中、傘も差さず、青春の雄叫びを上げながら、がむしゃらに直次は駆けた。
 どこにもたどり着けない。もうどこにも居場所がないのだと心の中で泣き叫びながら。

 気づけば、河原にいた。
 ただ何もせず、じっと川面を立って眺めていた。
 悪天は続いていたが、雨脚は弱まっている。
 上流で水量を調節された川は、それほど増水することもなく、波打つようなこともなくて、穏やかに流れている。
 どしゃ降りの雨こそ終わったが、空を軽く見上げると、どこまでも分厚い薄暗い雲が続いていて、切れ目など見えない。永遠にこの雨は降り続くのではないか。そう思えるほどだった。
 自分の無力さが、嫌になった。
 いつだったか、ここで兄と水切りをした。その時、兄はほとんど初めて水切りをしたにも関わらず、直次よりもずっと上手かった。それから、毎日のようにこの河原に通い、いつか兄を追い越してやると、こっそりと練習していた。その間ずっと兄の驚く顔、圧倒的に優秀な兄にひとつとはいえ勝利した弟を称える母の優しい顔が浮かんでいたが、……結局、そのような想像が現実のものとなることはなかった。
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