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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第34話

 元々青白かった寿美花の顔が、白くなった。血の気の失せた表情をしながらも、それでも冷静にどこかでそのことを当たり前だと感じている自分がいた。母はお嬢さま育ちで決して体力があるほうでなく、しかも心理的なプレッシャーにも弱い。むしろ、今までこれほどの状況下で持っていたのが奇跡と言えた。
「突然、ふらっと倒れてしまって……」
 悠寿美苑の中は大騒ぎになっている。
 寿美花はその混乱以上の混乱を味わっていた。最大の心の支え。唯一無二の肉親。それが倒れてしまったのだ。悠寿美苑でも、ただでさえ職員が少ないのに、トップが倒れたということで大混乱だったが、それ以上の苦しみだった。
 本来ならすぐにでも医務室に駆けつけるべきだったのだが、寿美花の両膝はがくがくと震えてしまった。
「早く……!」
 来て下さい、と続けようとした事務長は、目に涙を浮かべて小刻みに震えている寿美花を見た。いつも陽気な彼女からは信じられないほど、怯えた表情を浮かべていた。
「……た、立てません……。こ、怖くて、た、た立てないんです……」
 自分の両手で自分の肩を抱き、懸命に震えを抑えようとするが、無意識に起きる震動が止まらない。
(パパに続いて、ママも失うの……っ!)
 嫌だ、怖い、嫌だと、泣き言ばかりが脳裏に満ちていく。
 父に続いて、母まで失えば、今度は寿美花が施設に――孤児院に入らないといけなくなるかもしれない。
 父も母も両親の反対を押し切って結婚した。いまさら寿美花をどちらかの家が引き取るなどということは考えられない。もしあったとしても、今のように朗らかに生活することなど夢のまた夢だろう。母方の実家からは「あの男の娘だ」と睨まれ、父方の実家では「あの女の娘め」と白眼視されている。
 天涯孤独となり、家を追われる恐怖に、寿美花は必死にあらがおうとした。
 それは留吉老人が、人が必ず負ける勝負であると言った、老いや死と同じくらい強敵だった。

 直次は、寿美花に悠寿美苑を追い出されるように出た後、傘の下で、伊藤老人にもらった寿美花の写真を眺めていた。クリスマス会の会場の端の席に座って、笑顔を浮かべて一生懸命に拍手をしているセーラー服の少女。一心に舞台を見つめているその目はきらきらしていた。
 残念ながらその写真は普通のコピー用紙に印刷したものだったため、折り畳んだ後がついているし、少しこすれて滲んでしまっている。そんな汚れを目にして、あのチラシを作った時のことを思い出した。
 直次の胸に、鈍痛が走る。時間と共に消える肉体的な痛みとは別に、どんどん奥深くにその痛みは進んでいくようだった。傘が揺れて傾き、思わず数滴の雨が、寿美花の写真を濡らしてしまった。
 慌てて勢いよく上着の袖口で拭ったが、インクが伸びて余計に酷いことになってしまった。
 かすれて、笑顔が見にくくなった寿美花を見て、直次は、まるでもう一生、寿美花に会えないような予感がした。

 失意で家に帰ると、母屋の玄関に、男物の一本歯の高下駄があった。直次や母とは比較にならないほど、大きな下駄だ。
(兄だ……!)
 直次は、伊藤老人の死のショックさえも、一瞬、吹っ飛ぶほどの衝撃を受けた。ずっと世界武者修行の旅に出かけ、特に中国には長く滞在していた。いつしかいないことが当たり前になっていた兄がついに帰ってきたのだ。
 思わず、玄関で後退りする。このまま家を飛び出し、またどこかに行きたいと思った。どこかとは、いったいどこだ? 自分の思考に驚いて、自らに問い質すと、ふいに悠寿美苑で笑顔を浮かべる寿美花が浮かんだ。
 だが、もう悠寿美苑には行くことはできない。寿美花に面と向かって「もう来ないで!」とはっきりと言われたのだ。
 歯を食いしばり、母屋の自室に入ると、稽古衣に着替えた。自室まで歩くあいだ耳を澄ましてみたが、母屋に兄や母がいる様子はない。当然だ。ふたりとも古武術を心から愛している。今頃、道場で稽古をしているはずだ。
 母屋から渡り廊下を使って、道場に入った。冷たい板間に反応するように、背筋が伸びた。
 案の定、兄、日向直一は、当たり前のように道場の中央付近にいた。
「おう、直次」
 日焼けした黒くて太い腕を上げる。
「元気にしてたか?」
 相変わらずのたくましい、太く、厚く、大きな体。それが日に焼けて一層凄みが増している。その褐色の肌の中で、唯一まっ白い歯を見せて、笑いかけてきた。
 直次は、ただ黙ってうなずいた。無視しようとしたとか、そのようなことではなく、兄の威圧感のためにおいそれと口を開けなかったのだ。
「相変わらず無口な弟だなー。ま、そういうとこも可愛いんだが」
 屈託なく兄は笑っている。
 勝負の機微に対しては天才的だが、自分の太い腕や厚い胸板が周囲に与えるプレッシャーというものをまったく理解していない。
 母の栄もいたが、兄弟の久しぶりの再会に水を差さないように黙っている。
 直次は、どうにか足を進めて、直一の前に立った。
 風姿流古武術の間合いの半歩外だ。別に今から殺し合いをするわけではないが、兄の間合いに踏み込むのが恐ろしくて仕方なかった。正直言えば、兄を直視すれば、今すぐにでも震えが走りそうなほどだ。
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