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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第33話

 直次は一言断ってから、彼女の前の椅子に座った。
「どうしたんだ? なあ……」
 寿美花は二度目に声をかけられて、やっと顔を上げた。
 その目は、つい先程まで泣いていたらしく、赤い。
 顔を上げたのを見て、初めて彼女がついさっきまで泣いていたのだと気づいた。
「……泣いてたのか? ……その……」
 直次は何を言っていいのかわからず、周囲を見回した。老人ホームは、しんとしている。いつもなら、もっと笑い声や賑やかな音などが聞こえてくるのに。
「……新しく入った新人さんたち五人ともやめちゃった」
「……そうか」
「それにつられて、これまで引き止めていた介護職員さん達までやめることになったわ」
 直次は、あの二十歳くらいから四十歳手前くらいの男性たち五人が浮かんだ。確かに長く仕事をきちんと勤められる気配など感じられなかったが、それにしても唐突だった。
「……やっぱ無駄だったか……」
 思わず、自分の口からそう漏れていた。やはりという気持ちになる。
「えっ?」
 寿美花のほうは意外そうに直次の顔を見つめた。
「やっぱり努力なんて無意味なんだ。努力したって古武術に明日がないようにさ」
 脳裏に過ぎるのは、あの師範としての生涯にすべてを捧げているような母が、道場を手放すか悩んでいる姿だ。
「いや、むしろその五人が入ってやめたことで、今まで引き止めていた人たちまでやめてしまったってことは、きっと努力なんてのは有害でしかないんだ」
 寿美花は、直次を睨みつけた。
「どうしてそんなこと言うのよっ?」
「だって、本当のことだろ?」
 直次も怒鳴り返した。
 ふたりともそれぞれの事情でとても冷静ではいられなかった。
 直次は、生まれてからずっと住んでいた風姿流古武術道場と母屋のあるあの土地を手放し、住み処を変えなくてはならないかもしれない。
 寿美花のほうは、ずっと母と多くの大人たちに助けられて維持してきた、第二の住み処ともいえる悠寿美苑が大変な苦境に立たされている。
 どちらも住みなれた住み処を失おうとしていた。ひとりはその土地から、もうひとりは住み処が変質することで。
「努力が無駄なんて……そんなこと……そんなこと……」
 そんなことはないと断言できずに、寿美花はうわ言のように繰り返した。
「だったら、もう来ないで! ここにいる人たちは前向きに努力しているの!」
 寿美花に、不要だ、と言われた。そのことが、直次を激高させた。彼にとって、兄のこと、古武術のこと、不要だと言われることは、タブーだった。
「必要とされているおまえには、俺の気持ちなんてわからないんだっ!」
 直次はそう叫んだ。
 だが、寿美花は反論しなかった。よく見れば、目の下のくまが濃い。憔悴しきっている。直次は精神的な余裕がなくて、彼女の様子が尋常でないことが、すぐにはわからなかった。
 やっとそのことに気づいて冷静になった。同時に、食堂の窓から雨が降っているのが見えた。いつ降り始めたのか気づかなかった。寿美花も風景もろくすっぽ見えていなかったのだ。
 直次はやっと反省し、謝ろうとしたが、沈黙を先に破ったのは寿美花だった。その声は冷え冷えとして、虚ろだった。
「……伊藤おじいちゃんが亡くなったわ」
「……え?」
「あなたもよく知っている留吉おじいちゃんとよく一緒にいた、あの眼鏡をかけたパソコンが得意なおじいちゃん」
 直次は自分のズボンのポケットに触れた。そこにある財布の中には、伊藤老人にもらった寿美花の写真が入っている。亡くなった、という言葉が一瞬、異国の言葉のように思えた。脳がその言葉の意味を翻訳し、理解することを拒むような空白があった。
 だが、同時に頭よりも、無意識のほうがよく理解していた。だから、彼からもらった写真を意識したのだ。
「もう来ないでっ! 直次くんなんて、嫌い! 大嫌い!」
 寿美花の叫びに、雷鳴が重なった。一瞬だけ、食堂が白く漂白された。彼女の声の残響のように、轟く音が低く響く。
 必要とされる少女と、必要とされない少年の対立は、ここで避けられないものになった。
 直次は知らなかった。伊藤老人の死があって、寿美花が落ちこんでいることを。けれど、時間を戻してもう一度寿美花に話しかけることなどできない。
 自分の失言を悔いつつも、直次は席を立った。食堂の出入口で一度振り返ったが、寿美花は顔を伏せたまま、直次のほうは見ていなかった。彼は、一瞬、寂しそうな表情を浮かべたが、黙って悠寿美苑を後にすることにした。

 直次を追い出して、しばらくすると、やや放心していた寿美花でも、無視できないほどの騒ぎが起こった。
「何かあったんですか?」
「こ、こんな所にいたんですか!」
 食堂の隅にいる寿美花に気づいて、事務長が珍しく小走りにやって来た。老人ホームでは、ぶつかるといけないので、例え小走りでも走らない。それを、そういったルールに厳しい事務長が、気づかずに破った。その目は、一心に寿美花を見つめている。
 ぼうっとしていたので気づかなかったが、寿美花を呼ぶ声がいくつか聞こえた。
「施設長が……」
 そこまで言って、事務長は、ごくりと唾を飲み、
「倒れました。今、医務室にいます」
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