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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第32話

 伊藤老人が亡くなって二日後、寿美花はふらつきながらも、悠寿美苑に手伝いに来た。だが、青白い顔をした彼女は、老人たちを介護するどころか、むしろ逆に彼らから心配されるほど酷い有様だった。
 結局、帰ることもできず、手伝うこともできず、ただ廊下の片隅にある長椅子に、うずくまるようにして座っていた。
 寿美花は、悠寿美苑にいる利用者たちのことを、自分の本当のおじいちゃんやおばあちゃんのように愛していた。特に伊藤老人はかなり親しい間柄だった。沈んだ気持ちからまったく抜け出せそうにない。
 いつまでそうしていただろうか。ふいにすぐそばに人の気配があることに気づいた。なにげなく顔を上げると、いつのまにか車椅子に乗った留吉老人が、優しい目をして近くにいた。
「……留吉おじいちゃんは……死なないよね?」
 無意識に、熱病にうなされたような目をして、寿美花は留吉老人にそう訊ねていた。彼は一瞬、かすかに目を剥いた後、
「可愛い寿美花ちゃんの頼みだから聞いてやりたいのは山々ぢゃが……無茶を言いなさんな……老人に限らず、人は死ぬものぢゃよ」
 留吉老人は優しくそう答えたが、それだけではちょっと薄情すぎると思ったのかまた口を開いた。
「老いや死というのは、避けられないものぢゃ。まだ若い寿美花ちゃんにはピンと来んかもしれんが、学校の試験で赤点を取るとか、何かの資格試験で不合格になるとか、そういったものとはまったく違う」
 留吉老人は自分の右膝を撫でた。そこはかつて彼が大怪我をしたところだった。
「手品の失敗とも違う。……一言で言うなら、どんな偉人だろうが、お金持ちだろうが、聖人君子だろうが、……老いや死には勝てないということぢゃ」
 確かに、避けられない死や老いは、学校のテストなどと違って、個人の努力でどうこうなる問題ではない。寿美花はただ黙ってゆっくりと語る留吉老人を見つめていた。
「そんな死と向き合った時、それを受け入れられる人というのは、結局のところ……まあ、自分で自分が好きだと言えるような生き方をしてきた人ぢゃと思う。ありていにいえば、自分らしく、悔いのない生涯を送れたか、ということぢゃ」
 そこで、留吉老人は、自分の右膝から手を放し、ゆっくりと、寿美花のそばに寄ってくると、寿美花の手を握った。その皺だらけの手から留吉老人の温もりが伝わってきた。
「伊藤さんは、悠寿美苑で最期を迎えることを望んでおった。そして、彼らしく生きた。きっと幸福ぢゃったろう。……大往生ぢゃよ」
 寿美花の頬を熱い雫が、流れた。寿美花はうつむいて肩を震わせて、声を上げて泣いた。

 嫌な曇り空だな。
 見ているだけで憂鬱になりそうな、どんよりとした暗い空だった。雨がそのうち降り始めるのは間違いない。こんな不吉な黒い雲からなら、何か雨よりももっと悪いものが降ってくるんじゃないかと、直次は思った。
 彼は珍しくその日は、稽古衣ではなく、普段着を着ていた。トレーナーとジーパンで、上にジャンパーを羽織っている。靴もスニーカーだ。
 久しぶりに悠寿美苑に行こうと思い、雨が降りそうなのを見て傘を持っていくことにした。
 古めかしい稽古衣の格好で、傘を差すと、どうにも見栄えが悪い。どうせ今日はもう稽古をしないんだからと、普通の服装にしたのだ。
 ただ雨が降りそうな雲を見上げるだけで、直次が嫌な気分になるのは、あの電話機の前で好地山涼子の名刺を、汚らわしそうに、けれど、決して放すことなく見つめていた母の横顔が残っているためだった。
 昼間なのに夕方のようにさえ感じられる薄暗い印象の狭い道を歩き、やげて悠寿美苑にたどり着いた。
 いつもどおり受付を済ませ、上履きに履き替えて一歩ロビーを進んだところで、「……ん、あれ?」と不思議に思って周囲を見回した。
 大きなガラス張りの玄関や窓から射しこむ日の光が弱いためかと思ったが、何やら暗いよどんだ空気が、悠寿美苑の中に溢れていた。
 あのクリスマス会や、他の日には感じられなかった、不思議なほど寒々とした気配だ。改めて受付の時の事務員の様子を思い浮かべたが、名前の知らない顔見知りのその事務員も、なんだか落ちこんでいる印象だった。
 寿美花は、事務員によると、悠寿美苑の中にいるという。彼女は、唯一の女子高生で、この老人と職員しかいない施設内では、とても目立つ存在なので、探すのに苦労はしない。訊ね歩けば、すぐに見つかる。
 彼女は、食堂の端にある椅子に座っていた。
 ぼうっとして、何もしていない。
 誰もいないがらんとした食堂は、まるでいつか直次が見た道場の光景のよう寂しげだった。
「……寿美花?」
 軽く声をかけた。
 彼女はぴくりとも動かない。ただ黙っていた。
「……おい、いったいどうしたんだ? 何かあったのか?」
 いつもなら「久しぶりね、直次くん。元気にしてた?」と快活に答えてくれる彼女が、今はただむっつりと黙りこんでいる。
 テーブルの上には何もない。お茶を飲んでいたわけでもなく、何かの雑用をボランティアで手伝っていたわけでもないらしい。正直、人手不足のこの悠寿美苑で、寿美花がこうしているのを直次は初めて見た。
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