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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第30話

 直次は、好地山涼子と母の息の詰まる口論を聞いて、どっと疲れた。もうとても老人ホームへ行く気にも、稽古を続ける気にもならない。
 シャワーを浴びようと着替えを取りに行ったところで、電話の音が鳴っていることに気がついた。
 取りに行こうかと思ったが、母と顔を合わせるのもなんだかばつが悪くて、そのまま放っておいた。
 だが、母のほうも先ほど好地山涼子を追い返した余韻が残っているためか、電話に出ない。
 このまま切れるんじゃないか、と少し心配になり、もし悠寿美苑の寿美花からの電話だったら、と思いついて、電話に向かって歩き始める。
 玄関脇にある受話器を取ったのは、母だった。直次は、角を曲がってちょうどそれを目撃した。
 戻ってシャワーを浴びるか、と引き返そうとしたが、母の珍しく困惑した悲鳴のような声を聞いて、足を止めた。
「……えっ……あの……そうですか……。いいえ、これまで援助して頂いただけでも本当に助かりました。はい……はい……」
 向こうが受話器を置くのを待ってから置いたらしく、母が受話器を置くまで時間がかかった。
 置いた瞬間、一つため息を吐き、その体が、一回りも二回りも小さく見えて、直次は驚いた。母の視線は、何もないすぐ目の前にある壁に向いていた。
「……これで最後の頼みの綱もなくなったわ……」
 電話の台の引き出しを開けると、まるで汚らわしい物を触るように、指先で摘んで一枚の名刺を取りだした。
 母の顔には、苦悩と屈辱が見え、その名刺が大具池不動産の好地山涼子の名刺だと、直次は気づいた。
 あれほど散々言い争って、追い返した彼女に、母は頼らなくてはならなくなったのかもしれない。日向栄個人としては、あの好地山涼子に頭を下げるなど、もってのほかだろうが、古武術道場の師範としては、頼らざる終えなくなってきたのだろう。

 日向栄が悪い知らせの電話を受けていた頃、西園寺寿美花も旧知の仲からの電話を受けとっていた。場所は事務室で、本来なら寿美花が電話を受けとるべきではないかもしれないが、ちょうど仕事や昼食やトイレなどで全員が席を外していたのだ。人手不足の影響がこんなところにまで現れつつある。
「はい、悠寿美苑です」
 目の下にくまが出来ている寿美花は、それでも明るい第一声を出した。
 しばらく、電話の向こうの相手は無言だった。
 いたずら電話かしら? 寿美花はここ最近嫌なことばかり立て続いていたために、そう想像しただけで大きく気落ちした。やや病的ともいえる精神状態になってきていた。
「……お久しぶりね、寿美花ちゃん」
「……っ! 要さん!」
 寿美花は、うっすらと目に涙を浮かべながら、嬉しそうに答えた。
「はい! お久しぶりです! お元気でしたか?」
 寿美花の言葉に、要はすぐには答えなかった。
「……ええ、まあ、ね」
 と端切れも悪い。
「まさかねぇ、寿美花ちゃんが電話に出るとは思わなかったわ。せめて、事務長がよかったわね……」
 寿美花の輝いていた顔が、じょじょに暗くなっていった。
 要の声は、寿美花の予想を裏切って、聞いたこともないほど、元気がなくて、つらそうな声だったからだ。
「あの……腰痛のほうは、快方に向かっているとお聞きしていたんですけど、違うんですか?」
「腰痛のほうは……ね……」
 要の声に、申し訳なさが滲みつつある。なんだかとても悪い予感がして、要にそれ以上しゃべらせないように、寿美花は早口に言った。
「二週間程度で治るかと思ってたんですが、思ったより酷かったんですか? あっ、でも大丈夫です! 確かに人手不足で大変ですけど、要さんが帰ってくるまで、みんなで力を合わせてがんばりますから」
 要は無言だった。しばらくすると、息を吸い込み、むりやり声を絞りだすように、
「――ごめんね、寿美花ちゃん……わたし、悠寿美苑を、介護の仕事を……やめるかもしれない」
 ここ最近何度も聞いてきた台詞だった。やめたい、やめる。いろいろな介護職員から聞いた。けれど、まかさ要から聞くことになるとは。
 理由を訊ねることもできず、寿美花は驚いて放心してしまった。
 無言になった寿美花に代わって、今度は要が一方的に事情を説明しはじめた。
「あのね、寿美花ちゃん。腰痛はほとんど治ったのよ。もうちょっとで快復する。けどね、今回の一件をきっかけに家族と揉めちゃったの。仕事にすぐ復帰すると私も最初は主張してたんだけど……。夜勤や土日出勤もあって、生活のリズムが夫とも息子ともずれて、すれ違いの毎日だった。それが、怪我の功名っていうとあれだけど、自宅で療養してて改めて気づかされた。それにね……」
 要は声の調子を軽く整えて、
「『本当の家族と、老人ホームの老人たちと、どっちが大事なんだっ? 俺と父ちゃんよりも、向こうにいるじいさんやばあさんのほうが大事なのかっ?』って、息子に言われて、何も言い返せなかった。そんなふうに息子が思ってるなんて知らなかったから」
 寿美花は、このまま要の話を聞き終わったら、もう二度と要が職場復帰しないのではないかと感じた。どうしても何か話さなくてはならない。
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