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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第14話

「――ひっ!」
 直次は短く悲鳴を上げて、一歩下がった。
 瞬間、死体にしか見えない老人が、両手を上げて「ワッ!」と叫んだ。
 直次は声にならない悲鳴を上げて、数歩後ろ歩きし、足を滑らせて、浴槽に落ちてしまった。
 盛大な水しぶきが上がり、恐怖と混乱で浅い浴槽で溺れそうになって手足をばたつかせ、どうにかこうにか水面から顔を覗かせた。
 その彼に向かって、先ほど白目を剥いていたはずの老人は、指を突きつけて笑っていた。
「ワッハッハッハ! なんぢゃい、そのざまは! そんな情けない様子では寿美花ちゃんを任せられんぞい! 一昨日来やがれ!」
 浴槽で上体を起こし、濡れた前髪を払いつつ、直次は、半白の髪をオールバックにした老人を見つめた。まだ何がなんだかわからない。
「……死んでたんじゃ……」
「ああ、……これか? これはのう、血糊ぢゃ」
 事もなげにそう言って、老人は持っていたハンカチで丁寧に鼻の下と口元を拭った。
 やっと直次は、自分が一杯食わされたことに気づいた。
「……な、なんでこんなことをするんだっ!」
「お? 怒ったのか?」
「当たり前だ!」
「フン! 見ず知らずの男を、可愛い孫娘が家に連れてきたとしたら、お前ならどうする? どのような男か見極めようとするぢゃろうが?」
「あんたは西園寺寿美花のお祖父さんなのか?」
「血は繋がっておらんし、法律上も縁戚関係はないが、心は家族ぢゃな」
 安心感と疲労で、直次はため息を吐いた。老人ホームにいるご老人というイメージとは程遠い大変元気の良い口の達者な老人だ。とても口ではかないそうにない。
「わしは好地山留吉ぢゃ。寿美花ちゃんには留吉おじいちゃんと呼ばれて親しまれておる」
「俺は日向直次。たぶんあんたが考えているような関係じゃないぞ」
「フン! 何を言うかっ。最近の若者ときたらゴーコンだの何だのと軟派になりおって! わしの目の黒いうちはキッスなんぞ許さんぞっ!」
「直次くん、どこー?」
 話し声を聞きつけたらしく、寿美花が一般浴室に顔を出した。そして、浴槽でびしょ濡れになっている直次と、その彼を見下ろしている留吉老人を見つけた。

 暖房の効いた談話室で、寿美花が持ってきてくれたジャージを着た直次は、貸してもらったバスタオルでまだ少し濡れている髪を拭っていた。柔道着と袴は、現在洗濯機に放り込まれ、洗い終わったら乾燥機に掛けてもらえる予定だ。
 直次の隣には、車椅子に座った老人がふたりいる。留吉老人と、彼が「友人ぢゃ」と紹介した眼鏡をかけた伊藤老人だ。
 寿美花に叱られた留吉老人は、うつむいてしゅんとしていた。
「すまなかったのう……ちょっと驚かすだけのつもりぢゃったんぢゃ……。まさか浴槽に落ちるとは……ついつい元手品師としての血が騒いでしまったんぢゃわい……」
「もういいですよ、留吉おじいさん。……俺も正直腹は立ったけど、そこまで謝ってもらわなくても」
 直次がそう言うと、留吉老人はにわかに顔を上げた。
「フォッフォッフォッ! そうかそうか! では、寿美花ちゃんにちゃんと許してもらえたと後で伝えておこう。――さて、くだらん小僧のご機嫌取りに大切な時間を使ってしまったわい。伊藤さん、将棋観戦ぢゃ将棋観戦ぢゃ。早う行くぞい!」
 留吉老人は、車椅子の駆動輪の外側にある、タイヤより一回り小さな左右の輪を握った。
 車椅子で自力で移動する際に使用する、ハンドリムである。
 その左右の輪を同じ力で前方に回せば、車椅子は前進し、後方に回せば後退する。また、左右どちらかだけなら、回した側と反対方向に曲がれる。
 車椅子の老人ふたりは、ハンドリムを手で回しだした。留吉老人も伊藤老人も自力で軽快に移動する。直次もその後に続いた。
 テーブルと椅子がある洋風の談話室だったが、その片隅には六畳くらいの畳が、台の上に敷かれていた。畳のある台は、椅子くらいの高さで、そこに腰を下ろしている老人もいるところを見ると、どうやら座ったり移動したりしやすいようにその位置にあるらしい。
 将棋と囲碁のセットがあるが、今は将棋の対局のみが行われていた。
「悠寿美苑の名人戦を見逃すところぢゃったわい」
 留吉老人の言葉に、伊藤老人が軽く頷く。ふたりの目は、いかにも将棋が強そうなふたりの老人が囲む盤面に注がれている。
「おや、留吉さん、やっと来たのかい? ……どうだい、どっちが勝つか明日の三時のおやつを賭けねぇか?」
「フッフッフッ! いいぢゃろう。お主がおやつを喉に詰まらせて死ぬといかんから、このわしが食ってしんぜよう」
 はたで聞いていてひやひやするようなブラックジョークが観戦者の間で飛び交っている。
「直次くん、驚いたでしょ?」
 いつのまにか談話室にやって来ていた寿美花が、いたずらっぽく微笑みながら直次に声をかけた。彼女はまだジャージ姿で、手伝いをしているらしい。
「ああ……なんていうか……かなり想像と違うな。もっと病院っぽいイメージがあった」
「確かに看護師さんもいるし、非常勤だけどお医者さんもいるわ。でも、老人ホームは生活の場だから」
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