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スイと狼殿

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: そばかす
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第32話

 無論、これほど重要な役割を与えられている聖王騎士団二番隊のリズの能力は極めて高い。その彼女が、たいして争った形跡もなく、口から血を吐いている。さきほどの悲鳴が、リズのものだと気づいたエスカリテは震えた。
 宰相モームは多少は魔法の素養があったが、魔法も武術もほとんど使えないはずだったのだ。
 すぐにリズに治癒の魔法をかける。エスカリテを見ると、リズは安堵したように息を吐いた。リズの顔が微妙に変化していく。変装のため魔法で顔の一部を変えてあったのだ。無論、睡眠時や気絶時に正体がバレないように、意識のない状態でも魔法は本来なら継続するはずだった。継続できないのは、リズの魔力が、生命力が急激に低下しているためだろう。
 エスカリテと反対に、右にアスラム王子とナハトは駆け出していた。
「マジかよ……!」
 ナハトは敵の速さに驚いた。女の姿で歩幅が狭く、邪魔なロングスカートをはいていることを差し引いても敵が速すぎる。しかも敵の小太りの高そうな服を着た男は、気絶したスイを背負っているのだ。信じられない速度。
 単純な足の速さならアスラム王子よりナハトの方が速い。ナハトが追いつけない以上アスラム王子も追いつくことができない。アスラム王子は舌打ちした。魔法を使って攻撃すればスイを抱えた宰相モームを止めることはできるかもしれないが、万一スイを盾にされてはかなわない。
 黒いドレスを着た美女ナハトは両手を床について一声吠えた。強烈な白い光に包まれて一瞬で黒い巨大な狼になる。黒い瀟洒なドレスはびりびりに破けて床に落ちた。
 ナハトがさきほどまでの倍以上のスピードで駆け出すと、もう見えなくなりつつある宰相モームが両手をついて駆け出したのがわかった。まるで獣のように。それを見てアスラム王子は入れ替わりに気づいた。しかもまず間違いなく宰相モームの手引きだ。一国の宰相に魔物が化けていただけでも大問題だが、それが宰相自身の手引きによるものとなると、大問題どころか、問題外だった。そんな問題は秘密裏に処理するしかない。
 アスラム王子は召使い達に聞こえないように《ウィス》の言葉でエスカリテに命じた。
《聖王騎士団や宮廷魔道士にも知らせるな。陛下には事後、僕から伝えておく》
《無茶です! お一人では危険すぎます!》
《一人ならな……》
 アスラム王子は不機嫌そうだが、前を走る狼をみる目は揺るぎない。
(まことに気に入らないことだが、二人なら例え大国の軍隊相手でも渡り合えるだろう)
 別にアスラム王子はナハトを極度に信頼しているわけではない。ただ腕は確かで、いまはスイを助けるということで利害関係が一致している。ただそれだけのことだ。
 なによりもアスラム王子が恐れているのは、宰相モームがその本領を発揮すること。聖王都フィラーンの内部と外部から、外交による飴と超王の武力による鞭を使い分けられたら、下手をすれば聖王都フィラーンも飼い慣らされるかもしれない。無論、それには何年何十年という時間がかかるだろうが。そんな危険な芽は早めに摘むにかぎる。
 さらにいえば気に入らないことが多すぎた。敵が動いたこのタイミング。会話が盗聴されていたとしか思えない。しかも、スイをさらうにいたっては実に着眼点がいい、宰相モームの発案だろう、とアスラム王子は憎々しげに思った。
 聖王都フィラーンの宮殿を抜け、宮殿を守る三重の城壁を事もなげに跳躍し、ときには門番がいる門を疾風のように駆け抜けた。
 アスラム王子は門番たちに口外無用と指示を出した。そして、それを徹底させるようにと。
 スイをさらった獣のように走っている宰相は走りながら白い光に包まれて、超巨大な黒い獅子の姿に変わった。ザッパーだ。
《おい、クソ狼!》
 アスラム王子がナハトに叫んだ。
《なんだ、馬鹿王子!》
《誰が馬鹿だ。貴様らはどんな姿にも化けられるのか?》
 ナハトは舌打ちした。そんな能力があったら、先の聖魔大戦で、魔王ファランクス率いる魔物側が負ける訳がない。
《んなわけ、あるか! それより、馬鹿王子は、自分の部下が魔物に入れ替わっていても気づかないのか?》
 ふたりとも悠長にしゃべっているように見えるが、門番や召使いたちが反応できないほどの速度で駆け抜けている。が、スイを肩にのせた魔物ザッパーとの距離は縮まらない。
《いつ、入れ替わったのかが問題だが……。正直、舌を巻いているというのが本心だな。どうやら魔法融合計画とやらはもう完成間近か完成しているらしいな。いくつか新しい魔法ができている》
《らしいな》
 黒い超巨大な獅子ザッパーが逃げたのは聖王都フィラーンの近辺にあるフィラーンの樹海と呼ばれる場所。自殺者が多く、戦場よりも死体の多い場所とまでいわれていた。別名帰らずの森。その名称は生者が死者となり、もう帰ってこなくなるという意味だけでなく、磁場を狂わせて人の方向感覚さえも狂わせる森だからでもある。余談だが、ナハトとアスラム王子が戦っていたのも、このフィラーンの樹海の隅だった。
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