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スイと狼殿

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: そばかす
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第17話

 アスラム王子よりも頭一つ大きく、横幅も二倍はある巨体で、額に刀傷があり血行がよくなると浮き上がる。その太い刀傷がまるで赤鬼の角のように見えた。付いた二つ名が《沈黙の鬼神》。
 かつては滅多に笑うことのない無愛想な武人であった。
 最近は何かにつけて心配ばかりさせる王子のせいで、ニコラス隊長は茶目っ気を発揮するようになり、アスラム王子から「爺や」という称号まで与えられるまでになった。無論、「爺や」とアスラム王子がニコラス隊長を呼ぶのは冗談で、親しみを込めた呼び名でもある。
 ニコラス隊長は只者ではない。アスラム王子とアスラム王子の素行のことで口論になり、負けそうになると、突然、腰を押さえて「持病の腰がぁあ!」と叫ぶのである。これにはさすがのアスラム王子も閉口した。話術もへったくれもあったものではない。聖王騎士団隊長最年長であり、聖王騎士団一の功労者であるニコラス・J・ブライテンライトルスが痛くもない腰を押さえて「持病の腰がア! 腰痛がア!」ともっともらしく叫ぶのだ。ニコラスは腰など痛めていないし、今でも相変わらず《鬼神》だ。
 《沈黙》の二つ名を返上したニコラス隊長は「持病の腰がぁあ!」と、口論で負けそうになると叫ぶのである。
 さすがのアスラム王子もこれには参っていた。その上、老人の小言は長いというが、ニコラス隊長の小言も長い。しかも同じ事を十遍も二十遍も繰り返す。どんな難解な言葉でも一度聞けばすべて覚えてしまうアスラムにとって、それはあまりに退屈すぎて拷問以外のなにものでもなかった。しかも逃げだそうとすると「持病の腰がアァァ!」と叫びながら巨体の老人が追いかけてくるのだ。たまらない。
「……悪かった。頼むからやめてくれ」
 アスラム王子はエスカリテに謝る。
 ナハトはニヤニヤとアスラム王子を見ている。
 エスカリテは顔色一つ変えず《さっさとはじめましょう》と《ウィス》の言葉で言った。
 アスラム王子が、敵であるはずのナハトの前で、のんきに漫才みたいなことをして平気だった理由を、スイはすぐ後で知った。
 アスラム王子は断崖から飛び降りた。普通なら万に一つも助かりはしない高さ。なにせ真下にある森の木々が親指の爪ほどの大きさにしか見えないのだ。いったいどれほどの高さがあるのか、スイにはわからなかった。
 アスラム王子が落ちた場所で少し白い土煙が上がる。
 小さな豆粒ほどの白い点が動くのが、スイにはわかった。そして、
《来い》
 と言うアスラム王子の声が聞こえた。
 スイは驚いた。どうしてアスラム王子がこんな高さから落ちて無事なのか理解できない。そう思って、アスラム王子を包んでいた白い固い光を思い出した。鎧のようにアスラム王子を包み込んでいた白い光。
 たしかに、とスイは思った。この高さから落ちて無事であるほど強固な力に身を守られているのなら、アスラム王子が余裕を崩さなかったのもナハトの前で雑談をしていたのもうなずける。これではどんな剣も矢も傷を負わせることはできないだろう。
 スイは心配そうにナハトを見た。巨大な黒い狼がいまは小さな犬のように思えた。頼もしく思えた牙も爪も、聖王騎士団団長アスラム・G・グリムナードには通用しそうになかった。
《心配するな》
 巨大な黒い狼ナハトはそう言って、ニッと笑った。牙がのぞく。
 思わずエスカリテがびくっと後退った。
 スイは、ナハトの笑顔に、笑顔で返した。
 スイとナハトはしばらく見つめ合ったあと、ナハトは崖を飛び降りた。その全身が黒い光に包まれる。スイはほっと息を吐いた。色は違ったが、アスラム王子を守ったのと同じ光だった。
 スイは断崖のふちに両手をついて、下を眺めた。
 すぐに白い点と黒い点が両者距離をとりながら平行に走り出したのを見て、とりあえず安心して額の汗をぬぐった。
 スイのようすをじっと見ていたエスカリテが言った。表情は変わらなかったが、その声はいくらかふしぎそうな響きがあった。
「あの狼、いったい、あなたの何?」
「親友です」
 ナハトが聞いたら勝手に親友にするな! お前は親友を枕にしたり毛布にしたりするのか! と怒鳴っただろう。
 しかし、エスカリテは神妙にうなずき、「親友か……」とつぶやいた。聖王騎士団二番隊隊長にして大貴族の令嬢。文武両道、才色兼備。彼女に比肩する女性は、この聖王都フィラーンにさえ存在しない。つまり、対等な友人やまして親友と呼べる相手などいないのだ。親友という言葉に憧憬があった。
 が、無論、そんな感情をこの場で出すようなエスカリテではない。
 厳しい口調で言う。
「あの狼は魔物です」
「けど、いい魔物です」とスイが間髪入れず答える。
「魔物はすべて滅ぼさなくてはなりません」
「それは変です。いい魔物もたまにいます」
「多くの魔物たちは人の命を軽々しく奪います」
「ああ、人の言葉がわからない魔物さんたちのことですね。けど、ナハトは大丈夫です。ちゃんと人の言葉もわかるし、聞いてくれます」
「しかし、魔物です!」
「魔物でも、良い魔物もいます!」
 早口の口論。まるでジャブの応酬のような激しさだった。スイもエスカリテも非常に頑固だった。
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