ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

スイと狼殿

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: そばかす
目次

第16話

 ナハトはアスラム王子に目をとめた。
 アスラム王子は苦笑しながら、エスカリテの小言を聞いている。
 どうやらアスラム王子がぼうっとしていて、小石につまずきそうになったのだ。そしてエスカリテが苦笑しながら小言を言っている。
 ナハトはアスラム王子に興味を失い、スイとの会話に戻った。自分にも聞こえないようなボリュームで魔物の言葉を使った経験などほとんどないナハトには、この作業はかなりの集中力を要した。そのため、転びそうになったアスラム王子と手を貸したエスカリテが意味ありげに視線を交わしたことに、ナハトは全く気づかなかった。
 そもそもナハトはアスラム王子を嫌うあまり過小評価していた。完璧超人であるアスラム王子が小石につまづくなど例え天地がひっくり返ってもありえないことだった。
 アスラム王子は誰にも聞こえない声で口の中だけでつぶやいた。
「クソ狼……」

 アスラム王子とエスカリテがスイとナハトを案内したのは、とある断崖絶壁の真上だった。その下には地平線の彼方まで森が広がっている。その森には薄い霧が立ち籠めて、地平線に近づくにつれて霧のベールが濃くなり、地平線上は完全に白い霧に覆われている。不吉な印象の森。
「ここでどうだ?」
 アスラム王子がナハトに言った。
「え? ここ? どういうことですか?」
 スイは見回す。背後には少し遠くに聖王都フィラーンの城壁が見える。左右は原っぱで、前方は崖。案内すると言われた森を探したが見つからない。
「いいだろう」
 ナハトがそう言うと、アスラム王子は傲慢そうに鼻で笑う。
「落ちて怪我するなよ。治療班を向かわせてから戦いだなんて、締まらないからな」
「ほざけ!」
 なんだかどんどん二人の口調が悪くなっていく。スイには、どことなく二人が似ていて、それで反発し合っているように見えた。
 ナハトの全身が強い光に包まれた。変身の時の光。光の中、ナハトが黒髪の青年から美しい巨大な黒い狼の姿に変わった。
 黒いつややかな体毛、全長二・五メートルを超す巨体。そしてなにより印象的なのは紅玉のような瞳。
 アスラム王子はまったく驚いていなかった。
 エスカリテはその魔物の姿に驚いていた。彼女はこの若さですでに数々の武勲をあげ、様々な魔物を見てきている。しかし、これほどまでに美しい魔物を見たことはなかった。たいていの魔物はどこか卑屈で、いやらしく、卑しい。それは一九二年前に敗戦したがゆえの卑屈さであるのかもしれない。
 魔物には話せる魔物と話せない魔物がいる。話せない魔物は動物と変わらない。話せる魔物の多くは、口先では「魔物のための世界を築く」などと大仰なことを言いながら弱い小さな村々を襲って略奪を繰り返していた。しかし、いま目の前にいる黒い巨大な狼はそんないやらしさや卑屈さとは無縁だった。
 ふいにエスカリテの頬が赤くなった。魔物ごときに目を奪われた自分に腹が立ったのだ。気を取り直してアスラム王子を見た。
 アスラム王子の全身は白い光を放っている。ナハトが傷を癒したときの蛍の光のようなやわらかな光ではなく、固い光。ナハトの変身中の光のように目を刺すような鋭さはないが、固い光がまるで靄のように王子を包んでいる。
《それでははじめようか》
 アスラム王子がそう言った。《ウィス》の言葉、魔物の言葉で。スイは腰が抜けそうになるほど驚いた。事前にナハトから《ウィス》の言葉をアスラム王子たちも話せるだろうと聞いてはいたが、今まで《ウィス》イコール卑しく不吉な者という差別意識がスイには染みついていた。
 けれど、この高貴な美しい青年が《ウィス》の言葉で話すのを見て、その偏見がどれほど間違っているか、百万の言葉よりもよく理解した。
《ウィ、ウィス……だったんですね? アスラムさんも》
《アスラム様です。失礼な言い方をしないで頂きたいですわね》
 エスカリテの声が、またまた魔物の言葉、《ウィス》の言葉で返されて、スイは小躍りせんばかりに喜んだ。
《エ、エスカリテさんも、ウィスなんですね?》
《エスカリテ様とお呼びなさい》
 苦々しげなエスカリテ。スイとナハトに対する対応がまだ完全に決まっていないため、客人に対するように礼儀正しく接しているが、いくら何でも「エスカリテさん」はやり過ぎだった。そんな風に気安く呼べるのは貴族の中でもごく少数だ。大貴族の令嬢であり、聖王騎士団隊長の地位とはそういうものだった。
《あはは……。スイ、僕のことは別にアスラムさんで構わないよ。ところでさ、エスカリテが「エスカリテ様とお呼び」っていうと女王様みたいだね、むろんSM的な意味で……》
《セクハラ発言されたことはニコラス隊長に伝えておきます》
 ぴしゃりとエスカリテが言う。めずらしくアスラム王子は慌てた。ニコラス隊長とは聖王騎士団十一番隊隊長ニコラス・J・ブライテンライトルスのことである。聖王騎士団最年長の隊長だ。本来ならブライテンライトルス隊長と呼ぶべきだが、ニコラス隊長は戦場での伝達をわずかでも早くするため「ニコラス隊長」と皆に呼ばせていた。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。