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スイと狼殿

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: そばかす
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第9話

大きな水飛沫を上げて、ナハトが泉から上がる。
 スイは思わずナハトに見入った。
 濡れて光沢を増した漆黒の毛並み。朝日に輝く全身。濡れた犬のようなしょぼくれた様子はなく、がっしりとした肉体には威厳のようなものまである。光の中でちゃんと汚れを落としたナハトを見て、スイは、この狼がある意味美形であるということに気づいた。もちろんスイには狼にとっての美醜などわからない。しかし、どんな文化圏の人間でも美しいと感じずにはいられない美しさを感じた。
 スイが黒き狼ナハトの美しさに浸っていられたのはそこまで。ナハトがいきなり犬のようにぶるぶると体を震わせて水を飛ばしたのだ。スイは悲鳴をあげた。
《ちょっとナハト……やめてよね、いきなりは。するならすると言ってくれなきゃ…………》
 そこから先がつながらない。スイは口を開けて、あうあう、と意味不明な呻きをもらした。
 ナハトの体が白い光に包まれている。あの傷を治したときのような蛍の光のような淡いものではない。強い光。それでもスイは顔をかばいながらナハトの肉体が大きく変化していくのを見ていた。
 全長二・五メートルのナハトの体が縮む。それだけではない。いきなり前脚を両方とも上げたかと思うと後ろ脚二本だけで器用にバランスを崩すこともなく立った。その後ろ脚の形も大きく変わる。
 一番変化が激しかったのは頭だろう。大きかった口も、頭のてっぺんにあった耳もどんどん変わっていく……。
 そしてナハトの変身した姿は……。
「……あ、あう。う、嘘……」
 全裸のスイの前に立っているのは、全裸の青年。
 漆黒の髪に、印象的な紅玉のような瞳。
 ナハトは、スイと同い年くらいの人間の青年の姿になっていた。
「悪いが、もし俺に合う服があれば用意してもらえないか? 魔法で出せないこともないが、多少なりとも魔力の消費はおさえたい。ちなみに服の元になる布があるだけでもだいぶ助かる」
 狼の時と同じ口調の青年ナハト。
 スイはナハトの顔を穴が空くほど見つめてから、ナハトのつま先から頭のてっぺんまで眺めた。間違いなく全裸だ。真っ赤になって、息を吸い込む。
「き――」
「ん?」
 このあとスイは森中に響きわたる、鳥が何羽も飛び立つような大音量で悲鳴をあげた。同時に魔物の言葉でも悲鳴を上げたので、両方聞くことができるナハトはたまらなかった。
 スイは自分の服を引っ掴むと、ナハトの前から逃げていった。
 ナハトは腰に片手を当て全裸のまま呆然としていたが、しばらくするとその顔に大きな布が投げつけられた。魔法で服を作る。服を着ると、スイのもとに歩いた。さきほど布を投げつけたのはスイだった。
 スイは大樹の陰に隠れるように立っている。顔が赤いのは、布を取りに走ったためだけではないだろう。ちょっと涙目になっている。
 ナハトは涙を浮かべたスイを見て、ため息を吐いた。もう何度目だかわからない。
「一応、自己弁護しておく。俺は拒否した。無理矢理同行させたのは、お前だ」
 ナハトも噂で人間の女は異性の裸におかしな反応をするとは聞いていたが、これ程とは思っていなかった。種族の違いだろう。服を着て歩く狼などいない。
 スイは茶色い髪から雫を滴らせている。服も濡れた上から着たらしかった。
 ナハトはまたため息を吐いた。スイが隠れている大樹の反対側に腰をおろす。スイが落ち着くのを待ってから、ナハトは口を閉じたままスイに話しかけた。
《ちょっとは落ち着いたか?》
《うん。……ぐす》
 ナハトはため息を吐いた。
《悪かった。説明不足だった》
 スイはナハトが説明しなかったのが悪いとは思っていない。昨日出会ったばかりで、昨日の忙しさを思えば説明するヒマなどなかったし、それにきっかけもなかった。
《いいよ。もう。……それより魔物の言葉って、人の姿のときにも話せるんだね》
《正直、この姿で魔物の言葉で話すのは苦手だ。むしろウィスであるお前の方が上手いくらいだ》
 スイにはナハトの声が狼のときと違い多少雑音が混じって聞こえていた。
《そうみたいだね》
《俺はナハト。ナハト様と呼べ》
《うん。呼ぶね》
《呼ぶな。……冗談に決まってるだろ?》
《ほんとナハトの冗談ってわかりづらいよね》
《勝手に言ってろ》
 ナハトはわざとふてくされたような声をあげた。
 スイがナハトのいる側に大樹を回り込んで、顔をのぞかせて口で言った。
「ごめんね。ナハト。失礼なことしちゃって」
「いい」口を閉じ、真剣な目で、スイを見つめた。「で、俺といっしょに聖王都フィラーンに行く気はあるか?」
「うん」
 スイが即答するとナハトはあきれた。
 狼のときと違いはっきりとナハトのあきれ顔が見れて、スイはうれしくなって笑った。
(人をあきれさせたことなんて何年ぶりだろう)
 そんな他愛ないことで無邪気に笑う。
 しかし、それは陰惨な事実を裏付けていた。村ぐるみでスイに行われた差別。その長さ。その深さ。スイほど明るく前向きな人間でなかったら、とっくにおかしくなっていただろう。
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