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スイと狼殿

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: そばかす
目次

第1話

 時は聖歴一九二年。聖王グリムナード率いる人間の軍勢〈聖王軍〉と魔王ファランクス率いる魔物の軍勢〈魔王軍〉の戦――聖魔大戦に聖王軍が勝利し、聖王とその子孫達の治世が一九二年続いたある日のことであった。
 場所は聖王国フィラーン郊外に無数にある村のひとつ、パルス。羊の鳴き声がいつ止むともなく響き、羊飼いたちが緑豊かな野を歩いている牧歌的な村。村は粗末な柵で囲まれ、中央に井戸があった。その柵の外側に一軒だけ、一目で急ごしらえとわかる少々古びた小屋があった。
 その小屋から少女が現れた。年は十五くらい。髪も瞳も黒く、髪だけはやや茶色がかっている。肩にかかる程度の髪を、ヒモで無造作に後ろで結んでいる。空の桶を持ち、片手で日差しをさえぎって空を見上げた。
 少女の名はスイ。
 貧しい暮らしぶりなのは服装から明らかだったが、青空を見上げる目は澄んでいた。しかし、どこか暗い影が差しているようにもみえる。
 スイは、近くの森の泉に向かって歩きだした。村に入らず、柵のため大きく迂回して森に向かう。
「《ウィス》よ……っ」
 村の井戸の方から鋭い声が聞こえた。同じ村に住む村人の声だった。
 スイの顔が強張った。
(魔物の言葉が分かるから、なんだっていうの!?)
 スイは心の中で悲鳴とも怒声ともつかない声を上げた。パルス村で魔物の言葉が分かる《ウィス》はスイひとりだけだ。
 いつの間にかスイは強く桶を抱きしめていた。固い。ぬくもりもない。この村の人々のようだ、と思う。
 村人たちはスイをちらちら見ながら井戸端会議を続けている。
「いやあねえ、《ウィス》だなんて」
「魔物と言葉が通じるなんて、きっと心が魔物なのよ」
 姦しい女達の声に男の声が混じった。
「今年も聖歴一九二年か……」
 男がぽつりと漏らすと、騒がしい声が一瞬やんだ。
「だから何だってのさ」勝ち気な女の声が上がる。「魔歴が終わったのが一九二年だからって、聖歴まで今年で終わりなんてことあるもんか。くだらない迷信よ」
「そうよそうよ」と女たちの声が重なる。「まあ、《ウィス》が悪さしなけりゃね」と誰かが言い、どっと笑いが起きた。 
 スイは、村の井戸で水を汲んだことは一度もなかった。
 森に踏み込むと、空気が変わった。森特有のどこかひんやりとした清浄な空気。村の空気がよどんでいるようにスイには感じられるため、余計にそう思うのかもしれない。
 小さな森の中には、はちみつ色の木漏れ日が差していた。木漏れ日を受けて優しく下草の朝露が輝く。苦い思い出ばかりの村と違って、この森には良い思い出もある。
 村にいる間中張っていた肩の力を抜き、スイは思いっきり深呼吸した。
 この小さな森には子供の頃からよく来ていた。これといって食べられるキノコも木の実も見つからないので、村人はあまり来ない。
 小さい頃、この森で、ある変わった狼の子供を拾ったのを思い出した。毛が夜の闇を溶かし込んだかのように黒く、紅玉のような紅い目をした狼。一目見てあきらかに普通の狼と違うとわかったが、幼いスイは、その狼を気に入って家に連れて帰ったのだ。
 狼の子供は食べ物をもらうと、紅玉色の目でスイを見つめて《ありがとう》と言った。
 スイも口を閉じたまま黒い狼の子供に《どういたしまして》と答えた。
 人間の可聴域ぎりぎりの雑音のような声を聞いたスイの両親は、初めは愕然とし、次に真っ青になって震えだした。スイの母親が「魔物!」と叫び、スイの父親が「たすけて!」と喚いて家を飛び出した。
 当時五歳のスイは、両親の反応の意味がさっぱりわからなかった。それでとりあえず黒い狼の子供を抱えて両親の後を追って村中を駆け回ったのだ。
 その日の夕暮れには、スイは《ウィス》と村の人々から呼ばれ、両親からも蔑むような怯えるような目で見られることになった。
(消えてしまいたい……!)
 時々、スイは切実に思う。
 でも、死ぬのは恐い。自殺するなんていうのは、前向きでいつも一生懸命なスイにとって問題外だった。それでも「消えてしまいたい」という衝動を止められなくなることがある。
 もう一度、深呼吸して落ち着こうとした時、ふいに頭に声が響いた。
《…………ッ……ッッ》
 魔物の声だ。弱々しい声だが、声の方向はわかった。どうやら相当弱っているらしい。もしかしたら助けを求めているのかもしれない。
 けど、スイは声の方向に歩き出さなかった。空の桶をじっとみつめて、弱々しい声のする方ではなく、泉に向かって足を進めた。
 一歩、二歩、三歩――。
 ふいにスイは後ろを振り返って、魔物の声のする方に向かって走りだしていた。
 魔物は、誰かに助けを求めているわけではなかった。
 苦痛の呻きを押し殺していた。スイがいつも耐えかねる苦痛を押し殺していたように――。
 自分の庭のように歩き慣れた森で、一匹の黒い狼をみつけた。一噛みでスイの命を奪えるほどの巨大な口。全長二・五メートルほどの巨体を――――。
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