五話 雨音の涙
「翔、起きたらベッドを整え、服を着替えてから食卓にって何度言ったらわかるんだ?」
翔との同居が始まり半月が過ぎた頃には、以前からずっと暮らしていたかのように違和感がない。
言いたいことははっきりと相手に伝えるスタンスを作った洋の提案がよかったのか、少しずつ翔も自己主張するようになっていく。
「洋さんは、半裸でコーヒー淹れてた」
「……シャワー浴びた後だったんたよ……」
返された翔は軽く小首を傾げる。
洋はそれ以上突っ込まれないうちに着替えてこようと、自室へと戻った。
あれこれ注意された翔は納得できないという顔はしつつも、言われたことをしようとあたふたと着替えはじめた。
洋の方が早く支度ができ、テーブルには朝食が並べられていく。
ひと通り並べ終わった頃、翔の着替えが終わったらしく、顔を覗かせる。
「着替えたんならこっちに来て食べたら?」
「いいの?」
「いいんだよ。それに一緒に食べた方がおいしいだろう?」
翔はパァ~と顔が明るくなり少し照れるようにして席につく。
十八歳の翔は発育が遅いせいもあるが、精神的にも幼さがある。
洋にとって目の前にいる翔はせいぜい中学生くらい、下手したら小学生くらいを相手にしているような気持ちになっていく。
それはつまり、あの時から時間が止まったままなのだ。
あの時、それは洋の母が異変に気づいてからお節介をし始めた頃。
洋が中学生、翔が小学生の頃、そこで止まっているかのように感じる。
「なあ翔、僕は今日、講義が終わったらバイトなんだ。冷蔵庫に昼飯をつくっておいたから、レンジで暖めて食べるように。レンジの使い方は覚えたね?」
「……うん」
「バイト終わったらすぐ戻ってくるから、いい子で待ってて」
会話が小学生相手にしているようになってしまう。
「いい子って、俺、もうそんな子供じゃないよ?」
「……あ、悪い。なんかつい。そうだな、翔はもう十八だもんな」
とはいいつつも、気にならないといったら嘘になる。
結局、翔のことが気になったままバイトに身が入らない洋は、早上がりをすることにした。
今日も雨、客足は悪く、早上がりを申し出てくれた助かるとまで店長に言われてしまったほど、雨続きで売り上げが伸びない。
しかし洋もいつもこういうわけにはいかない。
洋にだって生活がある、一定の収入はほしいのだ。
しかし翔のことを思うと仕事が手につかないというのも困りもので……などと思いながら、帰路を歩く足を早めた。
小降りだった雨が次第に強くなる。
どこかで雷もなっているような気がする。
いつまで続くんだ、この雨は!
なんて忌々しい雨なんだと思いながら、アパートが視界に入ると気持ちは翔のことでいっぱいになっていく。
……と、アパートの入り口に人影があることに気づく。
その人物は強まる雨の中、傘もささずに立ち尽くしている。
人影からはっきりした人の姿を捉えることができると、洋はなりふり構わず走り出した。
「なにやってんだ、翔! 雨の中、なにやってんだ!」
腕を掴んで部屋の中へと入れる。
掴んだ腕が冷たい、どれくらい外に立っていたのだろうか。
「いつから? まさか僕が出かけてからずっとなんてことはないよね?」
「……? おかえり、洋さん。俺、ずっと待ってた。誰よりも早くおかえりなさいを言いたかったから」
「は? なに言ってんだ? 僕と翔しかいないんだから、翔がおかえりと誰よりも早く言えるだろう?」
「でも、出ていったらいつ帰るかわからないよ? 俺が眠っちゃったら言えないし」
「翔……眠たいなら寝ていいんだ」
「でも、おかえりは言わないと」
「……っ! ただいま、翔。おまえ、もしかして……」
どんな仕打ちをされても母親に依存していた翔。
たぶん、今日の出かけ方に母親が出かけたっきり数日戻らなかった時の光景に似てしまったのだと悟る。
しかし、どれが地雷だったのかはわからない。
大学やバイトに出かけたことは何度もあった。
その時は部屋の中で待っていたのに、なぜ今日だけ?
どうしたら翔に伝わるのだろうか。
自分は出て行くことはないこと、翔を置き去りにすることはないことを。
信頼してほしい、信じてほしい、言葉でいうのは簡単だ。
しかし、心にキズを負った人には当たり前のことも当たり前ではないのかもしれない。
そう思った時、洋は両手で翔のことを抱きしめていた。
「……洋さん?」
「僕は翔のことが好きだよ。だから置き去りなんてしない。帰るといったらちゃんと帰ってくる。僕のことを信じてほしい」
「……? 俺、洋さんのこと、好き。だから信じてる」
「だったら、なんで?」
「いい子で待ってなきゃって。俺、片づけ下手だから。家の中にいたら、きっとダメな子になっちゃうでしょう? ダメな子にはお仕置きが待ってるから。お仕置きはイヤ。痛いのはイヤ」
「……翔……そうか、いい子が地雷か。そうだな、なんで今日に限ってそんなこと言ったんだろうな、僕は。ごめん。翔はいつだっていい子だよ」
そう言った直後、翔は安心したように洋の肩に顔を埋めた。
だけどそれ以上動くことはなく、また力なく崩れていく。
「……! 翔?」
翔との同居が始まり半月が過ぎた頃には、以前からずっと暮らしていたかのように違和感がない。
言いたいことははっきりと相手に伝えるスタンスを作った洋の提案がよかったのか、少しずつ翔も自己主張するようになっていく。
「洋さんは、半裸でコーヒー淹れてた」
「……シャワー浴びた後だったんたよ……」
返された翔は軽く小首を傾げる。
洋はそれ以上突っ込まれないうちに着替えてこようと、自室へと戻った。
あれこれ注意された翔は納得できないという顔はしつつも、言われたことをしようとあたふたと着替えはじめた。
洋の方が早く支度ができ、テーブルには朝食が並べられていく。
ひと通り並べ終わった頃、翔の着替えが終わったらしく、顔を覗かせる。
「着替えたんならこっちに来て食べたら?」
「いいの?」
「いいんだよ。それに一緒に食べた方がおいしいだろう?」
翔はパァ~と顔が明るくなり少し照れるようにして席につく。
十八歳の翔は発育が遅いせいもあるが、精神的にも幼さがある。
洋にとって目の前にいる翔はせいぜい中学生くらい、下手したら小学生くらいを相手にしているような気持ちになっていく。
それはつまり、あの時から時間が止まったままなのだ。
あの時、それは洋の母が異変に気づいてからお節介をし始めた頃。
洋が中学生、翔が小学生の頃、そこで止まっているかのように感じる。
「なあ翔、僕は今日、講義が終わったらバイトなんだ。冷蔵庫に昼飯をつくっておいたから、レンジで暖めて食べるように。レンジの使い方は覚えたね?」
「……うん」
「バイト終わったらすぐ戻ってくるから、いい子で待ってて」
会話が小学生相手にしているようになってしまう。
「いい子って、俺、もうそんな子供じゃないよ?」
「……あ、悪い。なんかつい。そうだな、翔はもう十八だもんな」
とはいいつつも、気にならないといったら嘘になる。
結局、翔のことが気になったままバイトに身が入らない洋は、早上がりをすることにした。
今日も雨、客足は悪く、早上がりを申し出てくれた助かるとまで店長に言われてしまったほど、雨続きで売り上げが伸びない。
しかし洋もいつもこういうわけにはいかない。
洋にだって生活がある、一定の収入はほしいのだ。
しかし翔のことを思うと仕事が手につかないというのも困りもので……などと思いながら、帰路を歩く足を早めた。
小降りだった雨が次第に強くなる。
どこかで雷もなっているような気がする。
いつまで続くんだ、この雨は!
なんて忌々しい雨なんだと思いながら、アパートが視界に入ると気持ちは翔のことでいっぱいになっていく。
……と、アパートの入り口に人影があることに気づく。
その人物は強まる雨の中、傘もささずに立ち尽くしている。
人影からはっきりした人の姿を捉えることができると、洋はなりふり構わず走り出した。
「なにやってんだ、翔! 雨の中、なにやってんだ!」
腕を掴んで部屋の中へと入れる。
掴んだ腕が冷たい、どれくらい外に立っていたのだろうか。
「いつから? まさか僕が出かけてからずっとなんてことはないよね?」
「……? おかえり、洋さん。俺、ずっと待ってた。誰よりも早くおかえりなさいを言いたかったから」
「は? なに言ってんだ? 僕と翔しかいないんだから、翔がおかえりと誰よりも早く言えるだろう?」
「でも、出ていったらいつ帰るかわからないよ? 俺が眠っちゃったら言えないし」
「翔……眠たいなら寝ていいんだ」
「でも、おかえりは言わないと」
「……っ! ただいま、翔。おまえ、もしかして……」
どんな仕打ちをされても母親に依存していた翔。
たぶん、今日の出かけ方に母親が出かけたっきり数日戻らなかった時の光景に似てしまったのだと悟る。
しかし、どれが地雷だったのかはわからない。
大学やバイトに出かけたことは何度もあった。
その時は部屋の中で待っていたのに、なぜ今日だけ?
どうしたら翔に伝わるのだろうか。
自分は出て行くことはないこと、翔を置き去りにすることはないことを。
信頼してほしい、信じてほしい、言葉でいうのは簡単だ。
しかし、心にキズを負った人には当たり前のことも当たり前ではないのかもしれない。
そう思った時、洋は両手で翔のことを抱きしめていた。
「……洋さん?」
「僕は翔のことが好きだよ。だから置き去りなんてしない。帰るといったらちゃんと帰ってくる。僕のことを信じてほしい」
「……? 俺、洋さんのこと、好き。だから信じてる」
「だったら、なんで?」
「いい子で待ってなきゃって。俺、片づけ下手だから。家の中にいたら、きっとダメな子になっちゃうでしょう? ダメな子にはお仕置きが待ってるから。お仕置きはイヤ。痛いのはイヤ」
「……翔……そうか、いい子が地雷か。そうだな、なんで今日に限ってそんなこと言ったんだろうな、僕は。ごめん。翔はいつだっていい子だよ」
そう言った直後、翔は安心したように洋の肩に顔を埋めた。
だけどそれ以上動くことはなく、また力なく崩れていく。
「……! 翔?」
※会員登録するとコメントが書き込める様になります。