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ロベリアの種――悪を育てるものとは――

ジャンル: ハイ・ファンタジー 作者: 津島結武
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8話 ロベリアの迷霧

 気づけば、僕はシャムロ区の霧深い路地に立っていた。
 相変わらず狭苦しい通路だ。
 数歩先は真っ白で何も見えないし、横にそびえたつ古いレンガの壁は今にもこちらに倒れかかってきそうで仕方がない。
 というか、ここはシャムロ区のどこだ?

 僕は先ほどまで何をしていたのか思い出そうとした。
 しかし、早朝にベッグ衛兵から殺人事件に関する聴取を受けたのが最後の記憶で、どうしてもそれ以降の記憶を思い出すことができない。
 まさか僕は夢遊病患者のように眠りながらここまで歩いてきてしまったのだろうか?

 それはまずい。
 シャムロ区の道は中級者向けの迷路のように複雑に入り組んでおり、初めて足を踏み入れたものはほぼ例外なく道に迷うとされている。
 そのため、たとえここが自分の住んでいる地域だとしても、記憶のない状態でシャムロ区のどこかに放り出されれば、脱出するまで数キロメートルも歩く羽目になってしまう。

 というか今は何時だ?
 見上げると、空が火山灰に覆われたように暗い。
 まさか、もう夕方なのか?
 僕は一日の約半分も記憶を失っていたというのか!

 僕は頭がおかしくなってしまったのか?
 当然だ。どうかしてしまったのだ。
 だから昨日僕は人を殺してしまったのだ。
 だから僕はおかしくなってしまったのだ。
 人を殺すだなんて、まともな人間のなすことじゃない!
 人を殺したからいかれてしまったのだ!

 目の回る思いで壁に拳を叩きつける。
 時を戻したい。
 これほどまで時を戻したいと思うことはないだろう。
 たとえ他者に陥れられことによってどうしようもない渦の中に投げ込まれたとしても、自らの行為によって真っ黒な渦を作り出すよりは全然マシだ。

 どうして僕はこうなってしまったのだろうか?
 この疑問だけが頭の中を駆け巡る。
 いつから、何がきっかけで、何のせいで、誰のせいで?
 考えても考えても答えは出てこない。
 どうして答えが出てこないのか?
 その答えも出てこない。

 僕は目をつむっていた。
 湿った空気が頬に触れ、レンガのざらざらが手の皮膚に突き刺さる。
 土と泥の間のような質感の地面はゆっくりと僕を飲み込もうとしているようだ。
 変に服が重い。安くてぼろぼろの服なのに。
 路地を走る風は蛇のささやき声をあげている。

 しばらく呼吸をするのを忘れていた。
 目を開けて、体の中の汚物を吐き出すように息を吹く。
 すると、風に似た音がレンガの壁に投げかけられ、同時に遠くから土を踏む音が聞こえてくる。

 足音の方向に顔を向けると、霧の中に人影が出来ている。
 靴音とともに影が大きくなってくる。
 こちらに向かってきているようだ。

「どう、してだ……?」

 自分の中から声が聞こえてきたのかと思った。
 冷静になって、声は霧の向こうから聞こえてきたことに気づく。

「誰なんだ?」

 僕は影に向かって問いかける。

「忘れたのか?」

 影は応じた。

「いいや、忘れるはずがないよな……」

 そう嘲るように言いながら、影が姿を現す。

「自分が殺した相手なんて、忘れられるわけがないよなぁ」

 亡霊、怨霊、ゾンビ、様々な言葉が頭に浮かぶ。
 まさしく、目の前に現れた男はそれらを言い表すのに十分な存在だった。
 死んだはず、殺したはずの男。
 そして、頭から血を流した、虹彩を失った男。
 ケリー・ダビル。
 彼は手にナイフを持っている。

「へへっ……、随分と怯えているようだな。まあ、無理もないだろう。死者の復活に驚かない者はいない」
「お前、どうして……」

吐き気を催すほどに鼓動が早まる。
 後退りたいという欲求に駆られるも、なぜか思ったふうに体を動かせない。

「そりゃ決まっているだろ」

 死者がナイフを僕に向ける。

「俺を殺したやつに復讐するためだよ」

 逃げなければ!
 だけど、体が動かない!

 ダビルがナイフを振り上げて鬼のごとく襲いかかってくる。
 彼の口元にはわずかに笑みがこぼれている。
 復讐に取り憑かれた地縛霊が未練を晴らすチャンスを目の前にしたのだ。
 喜びの感情がこみ上げないはずがない。

 一方で、僕は恐怖におののいていた。
 金縛りにあったかのように直立し、死を待っている。
 しかし、不思議なことに、どんどん鼓動が落ち着いてくるのを感じた。
 安堵の感情というのだろうか?
 そんなはずがない。
 だが、確かに僕は気が楽になっていた。
 どういうわけか、殺されることに肯定的な感情をもっていたのだ。

 亡霊に飛びつかれて押し倒される。
 僕は目をつむった。
 殺すなら殺せばいい。
 殺されれば、すべてが終わる。
 たとえ今自分にのしかかっている存在の原因を明らかにされたとしても、僕にはその責任を負う必要がない。


 ――何もされない。
 急に静かになった。
 そうか、僕は殺されたのか。
 死ぬのは意外とあっけないものなんだな。

 今目を開けると何が見えるのだろうか?
 そもそも開けられるのだろうか?
 すべてが終わったわけだが、試してみよう。

 僕はぱっと目を開ける。
 すると、目の前に少女の顔があった。
 そして、僕は右手にナイフを持って大きく振り上げていた。

 どうして――?
 何が起こったんだ?

「ティノ!」
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