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アンジュ・ヴィエルジュ ~Another Story~

原作: その他 (原作:アンジュ・ヴィエルジュ) 作者: adachi
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第21話 翠緑と群青の追憶⑩

 一体何から逃げているのだろうか。畏怖を灯した視線からか。悪感情がそのまま生まれたような罵声からか。それとも、羸弱たる過去の幻影からであろうか。正体が分からぬものは怖ろしい。どういう性質なのか、どんな姿形をしているのか、それはどこから来たのか。ひたすらに恐怖し、振り切ろうと走り続けた。幾度となく繰り返してきたこの逃避行が成功したことがあったろうか。振り切れまいと理解していながらも、他にどうしようもなく、背筋を凍らしめる寂寥とした気配から遠ざかろうとすること以外、何も考えようとしなかった。
 肉体の限界は精神のそれよりもだいぶ早くに訪れた。どれほどの距離を走って来たのか定かではないが、先程までいた場所からは相当離れたはずである。肩が落ち着きなく上下し、心臓の鼓動が五月蠅い。長袖の膝上丈ワンピースの裾が波のようだった。
 校舎の裏通りなのか、殺伐とした風景に人影もなく、高い壁が光を遮り、濃い影を落としている場所で、セナは壁にくっつき、背を丸めて膝を抱き込んだ。やがて襲い来るものから身を守るためであった。体に染みついた防衛本能が自然とそうさせるのだ。後から息を切らしたウルリカが追いついても、顔を上げることはなかった。代わりに今にも消え入らんとするか細い声が、ウルリカの名を呼ぶ。
「リカ、リカ、私……」
「アタイはここよ。アンタの隣にいるわ、セナ。ああ、まるで捨てられた子犬のよう。そんなに俯いてちゃ、せっかくの可愛い顔が見えないわ」
「やっぱり、ダメだよ……気を抜いたらすぐ失敗しちゃう。さっきだってそうだった。私クラリスさんの『心』の声を勝手に……」
「わざとじゃないんでしょ? ちゃんと説明すれば分かってもらえるわ」
「でも、気味悪がられるよ。自分の心を勝手に知られるなんて。やっぱり1人で動いた方がいいよ」
「あら、それならセナ。どうしてアンタはそんなに泣いてるの? どうしてそんなに悲しんでいるの?」
「……」
 顔を膝の間に埋めたままだったセナが、ほんのわずかに顔を上げた。眼は充血して赤くなっており、涙の跡が頬を伝っていた。ウルリカは合わせられたセナの膝の皿に軽やかに乗った。
「アタイ嬉しかったわ。アンタが青の世界に行きたいって言った時。それがアタイのためだとしても、あの時アンタは右も左も全く知らない世界に飛び込んでいったじゃない。アンタは昔っから臆病だけど、度胸はあったわ。だから私たち親友になれたんじゃない」
 美しき過去。それはまだウルリカが人の姿をしていた記憶である。
「遥たちのことは好きかしら?」
 ぐずる妹をあやす姉のような、寄り添う落ち着きと優しさに満ちた動作でセナの頬を撫でた。
「……うん」
「だったらセナ。前にも言ったけどもっと開明的になって歩み寄らなきゃ。こんなところでぐずぐず泣いてるだけじゃ赤ん坊とおんなじよ。それはそれで可愛いけど、いや本当に可愛いわね。アタイがこのままずっとお世話してもいいくらいだわ」
「……それは普通に嫌だよ」
「なら、しゃっきりしなさい、セナ・ユニヴェール。そんなんじゃ青の世界に来た目的すら果たせないわよ」
「うぅ……でも……」
 それでも渋るセナにウルリカが喝を入れようとした時、学園全体に響き渡るような警報が至る所のスピーカーから発せられた。甲高く、頭の底に不快と不安を生じさせるよう調節されているのではないかと思えるサイレン。耳にした者──青蘭島に住む全ての者たち──は一斉に顔を上げ、その表情は様々なれど、喜色を表した者は1人もいなかった。そしてサイレンが鳴り終える前に、それ以上の不安と悪寒を駆り立てる叫喚が天と地を震駭させた。

「クラリス! テオ! アクエリア!」
 遥の叫ぶと同時に空に黒い太陽が出現した。日食でも起こったのかと太陽を探すと、燦燦と輝く午前の太陽が東の空に居座っていた。白と黒の太陽が2つあるではないか。遥たちは茫然と2つの太陽を見比べていた。すると、黒い太陽から星が光り出した。縦に垂直に3つ並んだ赤い星の星座が瞬き、徐々に大きくなる。数瞬の後にそれはなんと愚かしい錯誤であったろうと多くの者が思ったに違いない。赤い星は凶星であると、砂漠の物語で語られたはずであるのに。その星を見入り、美しいとさえ思ってしまった思考は、何と愚鈍で罪深いことか!
 黒い太陽から頭と首が突き出した。この表現は正確ではないであろう。”頭と首であると思われる”何かだった。3つの赤い星は頭であると推測される丸い物体に埋め込まれていた。
「まさか、あれが『マザー』か」
 クラリスが思わず呻いたのも無理はない。黒い太陽から突き出た頭部と思しきものは、死の淵に立つ病人のような白さであり、髪に相当する部分には太い触手が妙に現実的な質感を有して蠢いている。
 黒い太陽の内側の縁を、杉の木の幹ほどはあろうかという太さの紫色の4本の蛸に似た触手が伸びてきて押し広げようとしている。円周はゴムのように広がり、頭部と首から下の人間の上半身に酷似した部分が露見した。変わらず死人のような肌をし、腕らしきものはあるが気を付けの姿勢をして体と接合している。
 一目見て異様さが際立つが、それが氷山の一角に過ぎないという事実を望んでもいないのに明かされた。腰から下が外へ出ようとすると、押し広げたにも関わらず、つっかえた。視認できた限りでは、腰より下は人間の原型を保ってはいない。風船のように膨らんでいるらしいことだけが判明した。無理矢理出ようとしているのか、体を曲げ、回し、くねらせる様は、子宮から生まれようとする赤子を想起させる。巨体を押し付けられ、黒い太陽はさらに拡張されていく。
 『マザー』が青蘭島に降臨した。
 
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