さ行の変換
テーブルの上にはスポーツドリンクとひらがな五十音表。椅子にはガブリエルが腰かけている。
練習後、ひと気が薄くなった時間帯。ガブリエルを照らすあかりは寂しげで、達海は自室へ向かう途中、近寄った。
「が」
「ぶ」
ガブリエルは一心不乱にひらがなを書き続けている。
「り、り」
「『え』『る』、ムズカシーネ」
拙いひらがなの連続。たしかに『え』と『る』の痕跡がやたらに多い。曲線のバランスに苦戦しているようだった。
達海は手本を見せるために手を伸ばしかけ、やめた。お世辞にも文字をほめられたことはない。そして、これもひとつの練習の形だと、達海は黙ってその様子を見守ることにした。
ぎこちなく動くガブリエルの指先。それをぼんやりと眺めていると、用紙の片隅に何かが書かれているのに気付く。
我武璃柄瑠
雅舞梨獲流
意味をなさない漢字の羅列。
「……誰の仕業なんだよ、これはちょっとないよね」
「?」
「……だいたい見当つくけどさー。こんなのタトゥーとかにしちゃったらどうすんのよ」
達海は呆れた。同時に、懐かしさを覚えた。
(昔あったよな、『夜露死苦』とか……今もあんのかな)
達海の脳裏には疑問がふっくらと湧き出たが、答えが見つかりそうにもなく、ふたたびガブリエルの文字を追う。
書き慣れてきたのか、いくぶん上達してきたように感じた。
「ガブ、オッケーオッケー」
達海の言葉に、ガブリエルはフンと鼻息をもらす。
「あ、い、う、え、おか、きき、く、け」
書き取りに満足したらしいガブリエルは、次に五十音表を指さしながら音読しはじめた。
「コレハ『か』デス。ガブリエル、『か』、オッケー?」
ガブリエルが表に大きく描かれた「か」の部分を指でを叩く。
「うん。で、これはタツミの「た」」
「……た」
「タツミ・タケシ、どっちも「た」だよ」
「……た」
表の上を行き交うひとさしゆび。それをたどっていると、突然、達海の頭の内部が光った。
たつみたけし。
ごとうこうせい。
「オレたち、ふたりともおんなじ頭文字だ」
「?」
ガブリエルが小首をかしげているのにも関わらず、達海はアハハと腹を抱えた。
「ここにいたのか達海」
か行の最後を陣取る男の登場に笑いを大きくした達海に、後藤まで小首をかしげた。
(ごていねいに、セリフまで「こ」で攻めてきやがった)
「達海?」
「そうそう、オレはた行の男」
「は?」
「……となると、ここ邪魔だなー」
後藤は達海の指に視線を落とした。ひらがな表のさ行を繰り返しなぞっている。
「『さ』がどうしたんだ?」
さしすせそ。たった五文字の一行分が、達海にはふたりを隔てる長過ぎた空白の時間に見えてしまった。
「……ガブ、これはね、さよならの『さ』だよ」
「サヨナラ!」
「うん、さよなら……」
「サヨナラ!」
知っている日本語だったのかガブリエルは興奮している。
一方の後藤は、テーブルのわきに立ち尽くしたまま、困惑の表情を浮かべている。
『か』行の男と『さ』ようならした『た』行のオレ――なんちゃってね。
見上げた後藤の瞳がゆらゆらしている。達海はこの揺らめきを知っている。
(オレだった。さよならって、オレが告げたんだ)
ずいぶん前、夜露死苦の落書きが街に点在していた頃、達海はこの瞳に出会っている。
(後悔なんてしちゃいない)
「達海?」
(……だけど、あの瞬間だけ、もっかいやり直せたらいいのにな)
「おい達海?」
「ガブ、達海の「た」はねー、大丈夫の『た』だから!オッケー?」
「ダイジョブ!ダイジョブ!」
「……うーん、あ!もういっこ」
「モイッコ?」
「ただいまの『た』」
ガブリエルは紙いっぱいに「た」を書く。
「オッケーオッケー」
後藤が言う。
「お前が言うなよ後藤」
「なっ!」
年甲斐もなく頬をふくらませた後藤に、達海は肺のあたりから何かが染み入るのを感じた。
「後藤ったら、かーわいーのー」
「カワイーカワイーゴトーカワイーヨ」
「ガブリエルまでなんだよ!まったく!」
後藤の顔面がみるみる紅潮してゆく。達海はもう一度アハハと笑って、苦い思い出の上書きをした。
完
練習後、ひと気が薄くなった時間帯。ガブリエルを照らすあかりは寂しげで、達海は自室へ向かう途中、近寄った。
「が」
「ぶ」
ガブリエルは一心不乱にひらがなを書き続けている。
「り、り」
「『え』『る』、ムズカシーネ」
拙いひらがなの連続。たしかに『え』と『る』の痕跡がやたらに多い。曲線のバランスに苦戦しているようだった。
達海は手本を見せるために手を伸ばしかけ、やめた。お世辞にも文字をほめられたことはない。そして、これもひとつの練習の形だと、達海は黙ってその様子を見守ることにした。
ぎこちなく動くガブリエルの指先。それをぼんやりと眺めていると、用紙の片隅に何かが書かれているのに気付く。
我武璃柄瑠
雅舞梨獲流
意味をなさない漢字の羅列。
「……誰の仕業なんだよ、これはちょっとないよね」
「?」
「……だいたい見当つくけどさー。こんなのタトゥーとかにしちゃったらどうすんのよ」
達海は呆れた。同時に、懐かしさを覚えた。
(昔あったよな、『夜露死苦』とか……今もあんのかな)
達海の脳裏には疑問がふっくらと湧き出たが、答えが見つかりそうにもなく、ふたたびガブリエルの文字を追う。
書き慣れてきたのか、いくぶん上達してきたように感じた。
「ガブ、オッケーオッケー」
達海の言葉に、ガブリエルはフンと鼻息をもらす。
「あ、い、う、え、おか、きき、く、け」
書き取りに満足したらしいガブリエルは、次に五十音表を指さしながら音読しはじめた。
「コレハ『か』デス。ガブリエル、『か』、オッケー?」
ガブリエルが表に大きく描かれた「か」の部分を指でを叩く。
「うん。で、これはタツミの「た」」
「……た」
「タツミ・タケシ、どっちも「た」だよ」
「……た」
表の上を行き交うひとさしゆび。それをたどっていると、突然、達海の頭の内部が光った。
たつみたけし。
ごとうこうせい。
「オレたち、ふたりともおんなじ頭文字だ」
「?」
ガブリエルが小首をかしげているのにも関わらず、達海はアハハと腹を抱えた。
「ここにいたのか達海」
か行の最後を陣取る男の登場に笑いを大きくした達海に、後藤まで小首をかしげた。
(ごていねいに、セリフまで「こ」で攻めてきやがった)
「達海?」
「そうそう、オレはた行の男」
「は?」
「……となると、ここ邪魔だなー」
後藤は達海の指に視線を落とした。ひらがな表のさ行を繰り返しなぞっている。
「『さ』がどうしたんだ?」
さしすせそ。たった五文字の一行分が、達海にはふたりを隔てる長過ぎた空白の時間に見えてしまった。
「……ガブ、これはね、さよならの『さ』だよ」
「サヨナラ!」
「うん、さよなら……」
「サヨナラ!」
知っている日本語だったのかガブリエルは興奮している。
一方の後藤は、テーブルのわきに立ち尽くしたまま、困惑の表情を浮かべている。
『か』行の男と『さ』ようならした『た』行のオレ――なんちゃってね。
見上げた後藤の瞳がゆらゆらしている。達海はこの揺らめきを知っている。
(オレだった。さよならって、オレが告げたんだ)
ずいぶん前、夜露死苦の落書きが街に点在していた頃、達海はこの瞳に出会っている。
(後悔なんてしちゃいない)
「達海?」
(……だけど、あの瞬間だけ、もっかいやり直せたらいいのにな)
「おい達海?」
「ガブ、達海の「た」はねー、大丈夫の『た』だから!オッケー?」
「ダイジョブ!ダイジョブ!」
「……うーん、あ!もういっこ」
「モイッコ?」
「ただいまの『た』」
ガブリエルは紙いっぱいに「た」を書く。
「オッケーオッケー」
後藤が言う。
「お前が言うなよ後藤」
「なっ!」
年甲斐もなく頬をふくらませた後藤に、達海は肺のあたりから何かが染み入るのを感じた。
「後藤ったら、かーわいーのー」
「カワイーカワイーゴトーカワイーヨ」
「ガブリエルまでなんだよ!まったく!」
後藤の顔面がみるみる紅潮してゆく。達海はもう一度アハハと笑って、苦い思い出の上書きをした。
完
※会員登録するとコメントが書き込める様になります。