熱の行方
きょうも街はうるさくて、すれ違う人たちに「あ」とか「お」とか言われて、そのたびに後藤さんが嬉しそうにするから落ち着かない。路地裏に入ると、後藤さんに「こっちだ」と腕を引っ張られて、もっと落ち着かなくなった。
目当てのラーメン屋の入り口で、後藤さんは「味噌か醤油か」と悩んだ。深く悩んだ。
後ろに客が並ぶ気配がした。それで後藤さんのワキの下にもぐるように『ネギ味噌』のボタンを押した。
「お前が味噌なら俺は醤油だな」
「餃子もいっとくか?」
そんなふうに後藤さんははしゃいだけど、食券つまむ指先の震えに気をとられて、ちゃんと返事ができなかった。
うんうん、うまいうまい、うまいなあやっぱりここのは、うんうん。
あんまり混んでない狭い店内には、野菜を炒める音と少しの湯気と店員の過剰な元気と後藤さんの満足が充満した。
あんまり混んでないのに店内は狭いから、時々、後藤さんの肩や肘がぶつかって、店ン中も、肩や肘も、むしょうにあっつくて、どうにも落ち着かなかった。
「食ってみろよ、醤油うまいぞ、ほら、ひとくち」
そうすすめてきた後藤さんに、もうおなかいっぱいって答えた。後藤さんが食べてるものは、いつでもなんでもうまそうに見えるのに嘘ついた。
食えるわけなかった。ひとくちだって。
「なんだもったいない、お前の味噌、ちょっと」
後藤さんは手を伸ばして、どんぶりを奪って、勢いよく、麺をすすった。
うんうん、うまいうまい、うまいなあやっぱり味噌味も、うんうん。
礼と一緒に戻ってきたどんぶりに、直接、口をつけてスープを飲んだ。のどを通過してすぐ、おなかの上のほうも下のほうも、体全部、いっぱいになった。
帰り道も街は変わらずうるさくて、また、すれ違う人たちに「お」とか「ん」とか言われた気がしたけど、あんまり聞こえなかった。
後藤さんは夕暮れに見入っていた。うるさすぎるこの街のそこだけが静かだった。
たぶん、きょう一番、落ち着かなかった瞬間だった。
祈りが通じたのかそれとも偶然なのか、後藤さんがこっち向いた。
こっち見て。こっち見ないで。
見られてないと落ち着かない。なのに見られると落ち着かない。
「達海?」
名を呼ばれても落ち着かないし、名を呼ぶその声にもっと落ち着かなくなる。
後藤さんって、俺も呼んでみたい。
後藤さん。
後藤さん後藤さん。いっぱい呼んでみたい。
用がなくても、後藤さん後藤さん。たくさん呼んでみたい。
なのに、この声はいつだって上擦ってばかりで落ち着いてくれない。
信号が変わりそうになった。「急ごう」と背中を押してくる後藤さんのかたい手も、やっぱりあっつくて、ふたたび、体全部あっつくなるのを感じて、この熱を発散させなきゃ死んじゃうかもって、先ゆく後藤さんのTシャツの裾をつかんだ。
もういちど、振り返った後藤さんの、その顔に夕陽があたって、本当にまぶしくて、涙にじんできて、目そらした。
目当てのラーメン屋の入り口で、後藤さんは「味噌か醤油か」と悩んだ。深く悩んだ。
後ろに客が並ぶ気配がした。それで後藤さんのワキの下にもぐるように『ネギ味噌』のボタンを押した。
「お前が味噌なら俺は醤油だな」
「餃子もいっとくか?」
そんなふうに後藤さんははしゃいだけど、食券つまむ指先の震えに気をとられて、ちゃんと返事ができなかった。
うんうん、うまいうまい、うまいなあやっぱりここのは、うんうん。
あんまり混んでない狭い店内には、野菜を炒める音と少しの湯気と店員の過剰な元気と後藤さんの満足が充満した。
あんまり混んでないのに店内は狭いから、時々、後藤さんの肩や肘がぶつかって、店ン中も、肩や肘も、むしょうにあっつくて、どうにも落ち着かなかった。
「食ってみろよ、醤油うまいぞ、ほら、ひとくち」
そうすすめてきた後藤さんに、もうおなかいっぱいって答えた。後藤さんが食べてるものは、いつでもなんでもうまそうに見えるのに嘘ついた。
食えるわけなかった。ひとくちだって。
「なんだもったいない、お前の味噌、ちょっと」
後藤さんは手を伸ばして、どんぶりを奪って、勢いよく、麺をすすった。
うんうん、うまいうまい、うまいなあやっぱり味噌味も、うんうん。
礼と一緒に戻ってきたどんぶりに、直接、口をつけてスープを飲んだ。のどを通過してすぐ、おなかの上のほうも下のほうも、体全部、いっぱいになった。
帰り道も街は変わらずうるさくて、また、すれ違う人たちに「お」とか「ん」とか言われた気がしたけど、あんまり聞こえなかった。
後藤さんは夕暮れに見入っていた。うるさすぎるこの街のそこだけが静かだった。
たぶん、きょう一番、落ち着かなかった瞬間だった。
祈りが通じたのかそれとも偶然なのか、後藤さんがこっち向いた。
こっち見て。こっち見ないで。
見られてないと落ち着かない。なのに見られると落ち着かない。
「達海?」
名を呼ばれても落ち着かないし、名を呼ぶその声にもっと落ち着かなくなる。
後藤さんって、俺も呼んでみたい。
後藤さん。
後藤さん後藤さん。いっぱい呼んでみたい。
用がなくても、後藤さん後藤さん。たくさん呼んでみたい。
なのに、この声はいつだって上擦ってばかりで落ち着いてくれない。
信号が変わりそうになった。「急ごう」と背中を押してくる後藤さんのかたい手も、やっぱりあっつくて、ふたたび、体全部あっつくなるのを感じて、この熱を発散させなきゃ死んじゃうかもって、先ゆく後藤さんのTシャツの裾をつかんだ。
もういちど、振り返った後藤さんの、その顔に夕陽があたって、本当にまぶしくて、涙にじんできて、目そらした。
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