ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

BaBe

ジャンル: ホラー 作者: arasuka
目次

その2医師藤堂のとまどい後編

3.

「え、何々? ……今なんて言いました?」

藤堂は耳をそばだてた。

元々、小声の上に、顔を手で覆ったまましゃべられると聞き取りづらい。

その上、しゃくりあげるのでその声は言葉にならなかった。

指の隙間から見えるその顔はまるで幼児の泣き顔みたいに幼く見えた。

いつも硬い表情の公佳の本当の素顔が見えた気がした。

咄嗟に頭を撫でてあげたい衝動にかられて、右手が無意識に上がっていた。

自分でも驚いて、すぐに引っ込めた。

公佳の口元に耳を近づけると、彼女の温かい息がかかった。

もう何年も干からびている人間らしい感情が、熱湯に戻されるインスタント麺みたいに戻ってきている気になった。

まだ公佳の息遣いは言語になるのには程遠かった。

藤堂は公佳が落ち着くのを待った。

息をゆっくり吐いて、吸う動作をして、公佳も真似するように促した。

呼吸が静かになった。

「……もう、子供はいらないんです」

実は、最初もそう聞こえていた。

俄に信じられなくて、聞き間違ったような気がした。

いや、聞き間違いだと信じたかった。

あんなに妊娠したがっていたのに……

あんなに子供を欲しがっていたのに……

そして、やっと子供を授かったのに……

藤堂の頭は混乱していた。

動揺した様子をクライアントに見せてはいけないと、顔をそむけた。

だが、そんな余裕は無かった。

今度は藤堂の息が乱れる番だった。

どれくらい時間が経ったか……

藤堂は父がコレクションしていたレコードの棚から、聴いったら落ち着きそうな雰囲気のジャケットを取り出してかけた。

照明も少し落として、公佳が落ち着くのを待った。

やがて、公佳は落ち着いた声で静かに語り始めた。

「別れて欲しい……。夫にそう言われたんです……」

公佳の懐妊は今分かった。

夫はまだそのことを知らない。

「……旦那さんにご懐妊のことを知らせたら。ね、気が変わると思いますよ」

藤堂は明るく振る舞うようにいつもより声を1オクターブ高めにした。

「妊娠したって言うんです」

「妊娠? いや妊娠って今分かったことでしょ」

「いえ、私じゃなくて、他の女の人です……」

絶句した。

その場の時間がしばらく止まったように感じた。

「え?」

視線が落ち着きなく彷徨っている。

自分の上体が軸を無くして、ゆらゆらブレていくような気がした。

「先生? 大丈夫ですか?」

椅子から転がり落ちそうになった藤堂の身体を公佳の両腕が支えてくれた。

なるほど、夫から他の女性を妊娠したと打ち明けられたら、自分の立つ地面がどこかへ消えたように身体を支えていられなくなるんだなと思った。

公佳の腕にすがらなければ、このまま地面の下のどこかへどこまでも落ちていく気がした。

やっと椅子の上に水平に座れるようになった。

公佳に対する印象がガラッと変わった。

「公佳さん……強いな……」

公佳は大きく首を横に振った。

「……強くなんかありません。ここに来るのだって、どうやって来たのか覚えてないです」

4.

それから——

公佳が帰った後、藤堂の頭はグルグル回っていた。

ああ言って良かったのか、あの言い方で良かったのか。

後悔しても、言った言葉は戻らない。

そんなことは分かりきっているのに、クヨクヨが止まらない。

ムシャクシャしても藤堂にはこれと言った気晴らしもないので、突っ掛け履きで外へ出た。

(このところどうも妙だ……)

今までこの副業はクレームもなく順調にうまく行っていた。

子供ができない夫婦には、できるようにST酵素を処方し、子供が欲しくない夫婦、女性にはアンチST酵素を処方する。

もちろん女性の卵巣に藤堂自らが注入する。

両方のクライアントから、喜ばれていた。

不思議なものだ。

片方では子供を産むように、もう片方では子供を産まないように施す。

クライアントの数もちょうど半々だ。

なるほど、これが社会の縮図だったら、少子化が進むわけだ。

何のためにしているのか……時々、考えないこともなかったが、間違いのないのは両方の酵素を処方する度に自分の口座の数字が増えることだ。

それまではよかった。

二月前か。

子供産まない側のクライアントにいきなり言われた。「今度は子供が産まれるようにしてください」

藤堂は驚いた。

……確か彼女は独身のはずだった。

山村魅精——

身長は藤堂と同じ位なのに腰が藤堂の胸辺りにある。

そのスラリとした両足を広げて、藤堂の処置を切れ長の目で見つめる。

処置を行う手が震えているのをごまかそうとそうればするほど、余計に震えが大きくなる。

おそるおそる魅精の目を覗くと、心なしか笑っているように見える。

目を見るのが怖くて、うつむくと唇が(センセイカワイイ)と動いたように見えた。

魅精の勤務をしている会社は地元では誰もが知っている大きな会社だった。

彼女のような人にとっては、キャリア形成がなによりも優先するべきもので、妊娠やら、出産やら、育児やらは除去するべきものにすぎないんだな

と思った。

(だったら、最初からキャリア形成に邪魔な情交なんかやめとけよ)

というものの「、それは人間だもの、お互い様。

わかっちゃいるけどやめられないものはやめられないのだ。

完全に彼女はにとって、性行為の副産物で、ゴムをつけたりするのも面倒か、

あるいはゴムの装着の失敗なども考えて、完璧なリスク対策を考えた末、うちに来た。

そう思っていた。

それが、思いもよらぬ翻意に戸惑った。

それでも、硬質で無機質な美のサイボーグと思っていた彼女がやはり、生身の人間だったと思った。

女だとは思っていた。

下世話に言えば、性欲。

きれいに言えば恋心。

人間らしい心を持っていたのだと安心した。

産まれる時は何の意思もなくてもポコッと産まれるのに、

産もうと思うとどう努力しても、あれやこれや、模索して試しても産まれないものはいくら金を

つぎ込んでも、何を摂取しようが、どんな療法をしようが産まれない。

藤堂は今度は【産まない】処置をするのとはワケが違うと念を押した。

【産む】ようにするには、何倍、何十倍大変だよといい含めた。

「問題ありません!!」

魅精は私にきっぱりと言った。

だが、魅精は顔を曇らすどころか、パッと瞳から光を放って、

先生、産むに関しては全然心配していないんです。

私、根拠ないんですけど、すぐ子供が産まれる質だと思ってるんです。

私の細胞やら素粒子やらが、何かを産み出す方にベクトルが向いてる気がします。

理詰めや利得を生きる中心に置いて生きている人間にしては、【思っている】【気がしてる】

その確信が根拠に乏しいと思ったが……

その後、彼女は全く連絡をとらなくなった。

報酬をちゃんと支払ってくれる限り、連絡があろうがなかろうが、それはクライアントの自由だ。

まさか、魅精は妊娠したのだろうか?

【産まれる】と言った魅精の目は揺るがない自信に満ちていた。

その目は公佳の目とは全く逆の種類の目だった。そしておそらく藤堂の目とも違う。

魅精が生き物を食べる獣の目なら、こちらは獣の餌食になる方だ。

今まで全く意に介さなかったクライアントの実生活が公佳、魅精に限ってはどうしても知りたくなった。

藤堂はポケットからスマホを取り出して、リストから相手の名前を探した。

指が行ったり来たりして迷った。

自分から電話をかけるなど、藤堂にはめったにないことだった。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。