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ジャンル: ホラー 作者: arasuka
目次

第1章1-2 医師藤堂のとまどい

1.
藤堂俊作医師は診察室の小窓を開けた。
ほんの10センチほど開けるだけで、机の紙が飛びそうなになるほどきつい風だった。
台風の季節でもないのにやたら風が強い日だった。
クライアントが入って来るまでの少しの時間、窓の外の風景を見て気持ちを落ち着ける。
父の代から植えている小ぶりの桜の木の枝が折れそうな位にしなる。
ここのところの気象は全く異常だ。
この木がこんなに揺れたことなど今まに無かった。
世界が、社会が人間を滅ぼそうとしている……
まったく研究者らしからぬ感慨だが、近頃世界で起こっている出来事を知るたびにそんな気がして仕方がない。
やがて、クライアントは静かに入ってきた。
「失礼します」
いつものように、はっきりとは聴き取りにくい小さな声だった。
藤堂は普段診療時間に医院で診る人を患者、定休日・診療時間外に診る人をクライアントと呼び方を分けていた。
藤堂医院が内科・小児科の表の医療以外の診療行っていることを知る人は少ない。
だから、患者の呼び名を分けているのも医院長の藤堂しか知らない。
藤堂がクライアントを入れた部屋は、普段は鍵がかかっている上に、入ってすぐに衝立があり、中は覗けないようになっていた。
父は趣味室にしていて、防音設備をしてクラシックのレコードを聴いていた。
藤堂は部屋を改装して、診察できる機器を揃えて、秘密の診療ができるようにしていた。
「どうなされましたか?」
クライアントの顔を見るなり藤堂はそう尋ねた。
今日の来訪が定期的に日程を決めたものではなく、緊急のものだったこともあったし、
なにより、クライアントの表情がいつも以上に、怯えて見えたからだ。
その顔はもはや怯えを通り越して、今にも泣き出しそうに見えた。
度のきついレンズの向こうの瞳は
涙をいっぱいにためていた。
天敵の出現に木陰に身を縮めて震える小動物にも見えた。
いつも何かを恐れている――
彼女と合う度に藤堂はそう感じていた。
そして、それは藤堂の亡くした妻にどことなく似ていた。
小柄な女だった。
華奢な女だった。
守ってやりたかった。
でも、守り切れなかった。
「先生……」
入ってくるなり、彼女はできすがるように私に身を寄せてきた。
小柄な彼女の顔が私の胸にぶつかりそうになる。
その香り、息遣い。
一瞬、死んだはずの妻が蘇ってきたかと錯覚するぐらいだった。
彼女に触れる寸前、藤堂はすんでで彼女の両肩に手をやって受け止めた。
そのまま腕に力を籠めたら、グシャッと潰れてしまいそうなか細い身体だ。
およそ胎内で命を育むのには適していない身体だ。
守るより、守ってあげなければ今にも壊れてしまう。
藤堂は彼女の眼を見据えた。
「何があったんですか? 島さん」
藤堂の眼があまりにも真剣だったのに、たじろいだのか彼女は眼を逸らした。
そして、何か言いたげだった唇を少し震わせると、出かかった言葉を口元で塞ぐようにキッと、唇を噛んだ。
それきり下を向いて、弱弱しく
「……いいえ、別に……」と答えたまま、黙っていた。
2.
自分がおよそ医者に向いていないなと思ったのは研修医になってすぐだった。
勉強はどんな科目でもすぐに理解できて、頭に入って忘れることはなかった。
ところが、医者の仕事は本来、手先の仕事だったし、生き物を扱う仕事だった。
本ばかりよんで、およそ手先を動かす趣味もなく。
生き物は元来、触るのが苦手だった。
すぐに、頭を切り替えて、研究の方に方向転換した。
元々、父の医院の後を継ぐために、医大に入ったのだが、時代の流れで、医院の方も父の代で畳みそうな経営状態になった。
研究で一廉のものを成し遂げる――
そう誓って、遮二無二打ち込んだつもりだ。
だがそれも空回りして、やがて取り返しのつかないしくじりをしてしまった。
研究室にいられなくなり、逃げるようにして実家に帰って、しばらくは引きこもりのような生活だった。
近所で1番学力優秀な自慢の息子の転落に、両親は落胆し、母、次は父とあっという間に亡くなって、残されたのはこの実家兼医院だけだった。
近所の年寄り相手だけでは、とてもやっていけなかった。
皮肉なことに藤堂の窮状を救ったのは、しくじったはずの研究の成果だった。
彼は研究員時代がんの発生の起源を観察するうち、2つの酵素を発見した。
一つは正常な細胞を死滅させてしまう――言ってしまえば「死の酵素」だった。
その酵素が何らかの作用をして、癌が発症するのは間違いなかった。
しかし、どんなメカニズムでがん細胞に転化するのはまだまだ研究途中で解明には至らなかった。
もう一つの酵素はその「死の酵素」の副産物と言えた。
死の酵素が貼り付いて作用すれば、ほとんどの細胞ががん細胞に転化したのに、たった一つ正常を保ち続けた細胞があった。
その細胞を分析すると、そこにはかならず一つの酵素があった。
 生の酵素――それを藤堂はその酵素の仮の名を自分のイニシャルを付けて、ST酵素と名付けた。
順番は逆になったが死の酵素の方をアンチST酵素とした。
やはり死の酵素を自分の名前を1番に付けるのは、仮の名前だとしてもちょっと気が引けてしまった。
今日の最初のクライアント・島公佳はST酵素を注入するので多少は気が楽だった。
人工授精だと、心理的に抵抗がある夫が少なからずいるという。
この方法ならば、EDなどの直接の性交渉に支障がない限り、女性側の卵巣に酵素を注入するだけでに、95%の確率で妊娠をする。
男性側の生殖能力に問題ありとされていても、性交渉を重ねていくうちに、妊娠に至るケースも現れ始めた。
医学的にはまだ解明されていないが、女性の体内の酵素が男性の体にも影響を与えているのはほぼ間違いないことだろう。
とは言え、酵素を注入するにはクライアントに股間を開いてもらって、下腹部に注入しなければならない。
産婦人科が生業の医者なら、日常茶飯事なのだろうが、恋愛や婚姻関係でもない生身の異性の下腹部を扱うのは、いつまで経っても正常な気持ちではいられなかった。
(どうかしているな俺は、俺だって同じだ。ただの生身の人間に過ぎないじゃないか……)
死んだ妻は人間の男としての社会的喜びと肉体的な快楽を教えてくれた。
それも、通り過ぎて今は跡形も無かった。
自分も人間だと思いながら、研究所で顕微鏡越しに拡大された細胞を見すぎたのか、時々自分が電子機器の一部ではないかと思うこともある。
だから、生生しい人肌のやわかい手触り、暖かさに触れると思わずビクリと反射的に動いてしまって、クライアントの方が驚いてしまう。
「大丈夫ですよ!」と
口走った言葉の語尾が引っくりかえっていて、余計にクライアントが不安がる様子を見るのが怖い。
や、実際には別にそれほどでもないのかもしれないが、藤堂自身がもうクライアントの顔をまっすぐ見ることができない。
クライアントの体内の細部を大写しにした画像がモニターに映し出されて、やっと落ち着いた。
「……おめでとうございます。ご懐妊ですよ……」
と言い終わる前に、藤堂の言葉はかき消された。
島公佳の口から、こらえにこらえていた嗚咽が堰を切ったように漏れていた。
公佳の口からこんなに大きい声が出るのをはじめて聞いた。
慌てて藤堂はモニターから公佳の顔に視線を移した。
両手で顔を覆った指の隙間から、涙が止めようもなくこぼれ落ちていた。
機器を触っていた手を離して、思わず公佳の手に添えた。
公佳は涙があたりにこぼれ落ちないように掌を一杯広げていた。
公佳の思いが伝わって来たのか、藤堂は思わず、落ちてくる涙を受け止めようとした。
公佳の涙の粒が掌に落ちた。
涙はお湯のように熱かった。
(体温は低いのに涙は熱いんだな。)
3につづく
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