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ハーミッシュ物語~ある架空世界の小史より~

ジャンル: ロー・ファンタジー 作者: バーグマン1981
目次

青年医師は一人往く


―時を遡ること、7年前―

―ヴァルネアの長い冬が過ぎ去り、
美しき雪解けが、いのち呼び覚ます奔流となって森に流れわたる春―

早朝の、瑞々しく匂い立つような陽光を浴びて、リディス・エンヴェリーは思わず目を細めた。
森の樹々は朝露を滴らせ、再生を迎えた若い芽吹きは、春の精気を存分に呼吸している。
馬上から見遣ると、いつもより視線が高い分、森の天井がいっそう近くに感じられる。
木々の葉が織り成す自然のドームは、まるでレース地のように程よく光を遮り、
漏れ出でる暁陽の光はまた、程よく体を暖めてくれた。
リディスは思い切り息を吸い込んだ。
春を出迎える森の空気は肺を冷やすものの、それはえも言われぬ興奮というのか、童心のようなはしゃいだ気持ちを呼び起こすのだった。

―冬の名残の冷気に外套の襟を掻き合わせながらも、
リディスは自分の体内にも精気が沁み渡ってゆくのを感じた―

青年医師は、森の小道をひとり往く。
一路、クレカラの町を目指して。

と、突然、彼を背に乗せた馬が嘶(いなな)きを立てた。
ああ、失敬。
「ひとり」じゃなかった。
お前のことも忘れちゃいないよ、
バナパル。

リディシーヴ・エンヴェリーは、ヴァルネア王国の王都、クレカラ市の郊外に居を構える「エンヴェリー医院」に勤務する医師である。
名の示す通り、医院長はリディスの父であるオレッグ・エンヴェリー、以下、リディスを含む三名の医師、四名の看護士で営業されている、ごく小さな診療院である。
院長は調薬師も兼務するため院内に常駐であり、往診や薬の配達業務はほかの三名が交代制で行っている。

何はさておき、医者という仕事は朝が早い。
それをいえば、漁師にしろ農夫にしろ、料理人も大工もみな朝は早いのだが、わが身の辛さばかりをぼやいてしまうのは人の性(さが)である。
しかも、今朝は上得意の顧客の用命で、いつもより早い出勤なのだから、なお眠い。
思わず口を開けば欠伸が漏れ出るのも仕方がない。
ええい、こんな森の中で誰に遠慮会釈するものかと、リディスは大欠伸(おおあくび)を吐き出した。
その呼気が、森の澄み切った空気を吸い込む。
黙して語らず、いきもの達の息吹に耳を傾ける森の胎内で、はっと、その鼓動が聞こえた気がして、リディスは今一度、上を見上げた。

リディスとバナパルの歩く道に並走するように、小川が流れている。
冷涼たる輝きを水面に映して、川は、森の緩やかな傾斜を上って、クレカラ市の北部、城壁の背面にたどり着く。
クレカラ市の背後、つまり北側には、およそ40㎢ほどの森が控えている。
市の防衛において非常に重要な自然の要害であり、森の保護管理は軍が行っている。
周りを城壁で囲まれたクレカラの町は、 ほぼ正円形を成しており、一番大きな市門、正門を南と見立てると、森は市の城壁背面、概ね北東部から北西部にかけて隣接している。
この接触部分の城壁の外には、大きな貯水池が設けられている。
貯水池の取水は森を流れる川に繋がっており、澄んだ流れは城壁を抜けて市内に取り入れられ、人々の生活用水として恩恵をもたらす。
今朝リディスが目指す得意先の家も市内北部にあるため、一行は、川の流れの上流を目指して、森を進んでゆく。
町への近道なので、リディスは、しばしばこの道を利用しているが、舗装もされていないこの道は無論、市が整備している公共道路ではない。
エンヴェリー医院はクレカラ市の城壁を出た北東部に位置しており、城壁の東門からは、市が管理する街道が伸びている。
そもそも、エンヴェリー医院を利用する患者のほとんどは、城壁外部の農地に住居を構える農民、また森の中の集落で鍛造業や木材、皮革加工業を行う職工人たちであり、城壁内部に住む者はあまりいない。
よって、市からの交通の利便性はあまり考慮されていない立地になるが、ある意味では、何軒もの診療院が軒を連ねる市内とは違って、周りに商売敵のいないエンヴェリー医院は郊外の独占利権といえる。
そして偶然にも、城壁外の集落はエンヴェリー医院の周囲に集まっているのである。
しかしリディスがこれから往診に向かうお客の場合は、城壁内部の住人であるにも関わらず、旧知のよしみと信頼から、当医院に用命を下さるのだから、まことに殊勝と言えよう。

歩を進めていくうちに、はじめ、森に淡く行き渡っていた、白い霞のヴェールは晴れ、美しき花嫁の微笑にも似た、森の瑞々しい容貌を露わにさせた。
したがって日も段々と、温かく森を照らす。
それでもまだ、森は完全に目覚めを迎えていない。
早起きな小鳥たちは、リディスの頭上で、あるいは木々の梢で戯れるが、森の中にはまだ、うたかたの如き昨夜の夢の端を食んでいる者もいる。

リディスが、下手な動物よりも早起きしたのは、今朝のお客が非常に多忙な人物であり、先方の都合が空いている時間が朝方か深夜しかなかったためである。
誰だってこんな森の中を夜中に通りたいとは思わない。
いるとすれば隠密か密輸業者くらいだろう。
だいいち、医者が深夜に家に来るなどというのは何やら縁起が悪い。
諸々の事情を鑑みるに、リディスが早朝出勤を選んだのは、いわば必然の選択であった。
時間には、だいぶ余裕を持って出てきたので、取り立てて急ぐ必要はないが、仕事は早く済ませるに越したことはない。

ふと、リディスの耳に、何ごとか、森が自然のままであるならば、あまり聞こえようのない音が入ってきた。
時おり、コーン、と、古代の木管楽器のように、木に何かを打ち付けるような単調な打撃音。
それに混じって、ぼんやりとではあるが、人の叫ぶような声が聞こえた。
男ではない、女か、子供のような高い声だった。
しばし注意して耳を欹(そばだ)てる。
―やあぁぁー!―
声は同じような調子のものしか聞こえない。
発生源は単数のようだが、さやかに聞こえる訳でもないので、はっきりとは分からない。
何かあったのだろうか、と怪訝に思うリディス。
黙って素通りすることもできるが、何ごとか事故や事件でもあろうものなら、それを見過ごすのは、大袈裟に言えば、リディス本人の責任感と、医師としての倫理感への背信と思われた。
―緊急の場合には、遅刻もやむを得ず―
リディスは、バナパルの手綱を強く引いて曲がるよう指示をし、目の前の小川をひょい、と飛び越えさせた。
脇道へ逸れて歩を進めるにつれ、だんだんと音と声はしっかりと聞こえるようになってきた。

―おや、この声は、―
リディスの頭の中で、その高く、張りのある声と、ある人物の顔が符号をし始めていたのだ。
どうやら、思ったほど距離は離れていなかったらしい。
その声のする元に、見慣れた人影を認めたリディスは、安堵して、暫し静かに、その後ろ姿を眺めていた・・・。
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