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夜汽車

ジャンル: その他 作者: 吾妻千聖
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夜汽車

 部屋の中からジッと窓の外を見ていた。夜汽車がトンネルを抜けた。暗澹とした海に針のような光が延ばされ、暫くの間揺曳したかと思うと尾を引いた細い光の糸はまた先の暗闇に消えていった。
壁にかかる長針は一を示した。
「何も見えない。」
「目隠しをしているからね。」
「この罰はいつまで続きますか。」
「さあわからない。」
コップに手をあてると触れたところからじんわりと温かくなった。熱の広がり方が心地よくて小さく溜息が出る。コーヒーの匂いがゆるやかに鼻孔を満たしていく。秒針の音だけが厭に響く。
「きみもコーヒーを飲む?」
窓の外を見たまま僕は尋ねた。問いかけに対する返事は無かった。代わりに、
「どうしてこんなことをするんですか。」
「そうかい。熱いから気をつけるんだよ。」
僕も質問に対する返答はしなかった。
椅子から立ち上がり、声のする方を振り向く。後ろ手に縛られ、目隠しをされている少年が不安げな面持ちで壁にもたれ正座をしていた。目元が隠れていても人間の表情というものは容易に読み取れるものなんだなと感心した。普段から僕は人の気持ちを察することを不得手としていた。少年とのこの場合に関して、僕が少年を不安げだと形容できたのは、相手から見つめられない分一方的に凝視していられる所為だろうと結論付けた。ならば顔のどこを、どういう動きを根拠に心情を読み取れたのかという謎が残ったが不問に付した。特別興味の沸く現象でもない。
中指と親指を使って少年の小さな口を開いてあげる。
少年の口にコーヒーが流し込まれる。
少年は体に受け入れようとせず黒い液体は口から溢れ、重力に従って顎の先から零れ落ちる。コップはとうとう空になった。
「やめてください。」
力無く少年は呟いた。
「美味しいかい。」
僕は上機嫌でもう一度自分のコーヒーを淹れた。
また夜汽車が通過した。


 後ろで少年がしきりに悲鳴を上げ始めた。悪夢を見ているのだろうか。それともこの状況が彼にとって悪夢なのだろうか。僕はだんだん眠たくなって、机に上半身を預けた。頬がヒイヤリと冷たかった。


 少年は僕の妹を殺した。僕は妹をとても愛していたので、僕から妹を奪った少年を許せなかった。だから僕は少年を罰しているのだ。
という、夢の中にぼくは浮かんでいた。
目が覚めてから、僕は妹を愛してなどいなかったことを思い出した。

「暫く寝ていたみたいだ。」
首と肩のあたりが鈍く痛んだ。
「先生…先生…」
「先生、ここの問題がわからないのですが。」
「先生、一緒に遊びましょう。」

 懐かしい少年の声を聴く。
 少年は僕が担任を受け持っていたクラスの生徒だった。
春。クラスの自己紹介で少年が僕に向けた「はじめまして。」という言葉の、その発声の、声の、空気の、甘やかな響きを聴いた。
僕は決してペドフィリア(少年性愛者)では無いし、これまで同性に恋愛的感情を持ったことも無かった。ただ、何故かこの少年には僕に一種特別の、サデイズム(加虐愛)的な性質を呼び起こさせる何かがあった。その一つが少年の「声」であった。
詳細に何がどうであるかと問われれば窮してしまうのだが、少年の一つ一つが僕の昏い部分を静かに刺激しはじめた。
彼が僕を「先生」と呼び慕う度、彼にもっと親しまれたいという気持ちと、またその正反対の感情の二つが足音を立て進み始めていることを僕は自覚していた。
誰に言えるはずもなく僕は少年の声を密かに録音するようになった。
僕は授業中わざと数学の難しい問題を少年に向けて問い、「わからないなら教えてあげるから放課後先生と勉強をしよう。」と口実を作ることを日ごろ工夫した。
無垢な少年は決まって問題に答えられなかった恥ずかしさから少し顔を赤らめ、たいてい控えめに「はい、先生。」と言った。
僕はその度に自分が性異常者だということを確認させられた。
さて放課後になると少年は職員室の僕のところに質問に来た。ノートを持つ手のひらが、寒さと幼さのために節々が桜色を小さく讃えているのを僕は見逃さなかった。
僕は少年の純粋さと、何も知らないということの清潔さと、幼さと、真面目さが愛しくて愛しくてたまらなかった。
当然この気持ちは永遠に僕の中に隠しておくことを自分に誓っていた。誓いが瓦解したのは、彼が僕の年の離れた妹と恋愛関係にあると知った時だった。
僕は真っ先に妹を殺した。
それから妹の携帯電話を使って彼を家に呼び寄せた。
人は恋の前では愚かになるということを何処かで聞いたことがあるが、相手の為に我が人生のすべてを投げ出せないような恋をする方が愚かではないのか。

「先生…先…」
「ここの、もm、もんd、問題いいg、がわ、わかr」
「せんs」
少年の首にかかっていた音声レコーダーを取ってあげる。
「もう動かなくなったのかい。ちょっと待ってておくれ。すぐに話せるようにしてあげるさ。」
レコーダーの電池を取り換え、再び少年の首にかけてから再生ボタンを押す。
「先生。」
「何も見えない。」
「この罰はいつまで続きますか。」
「どうしてこんなことをするんですか。」
ああ。愛しい声が聴こえる。
僕はとても幸福です。
彼の声を永遠に聴き続けられる。
「コーヒーを淹れてあげるね。」
動かない少年の、据えた匂いが充満しないようにコーヒーを淹れて窓を開ける。
まだそんなに腐敗は始まっていない。
薄ぼんやりとした窓の外。
夜汽車は早朝の始発列車に代わっていた。
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