ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

てのひら怪談

ジャンル: ホラー 作者: 木葉
目次

エピローグ


ノートパソコンを閉じて、目頭を押える。

思いの外集中し過ぎて、予定より長く作業をしてしまった……疲れた目を休める為に、巽は瞼を落として敷きっぱなしになっていた布団の上に転がった。
しかし思い返してみると、様々な話が頭の中に収納されていたものである。その全てが明瞭という訳では無いが、数だけ集めてみれば、そこそこのものになるのでは無いかとも思った。
こうして作家の真似事をしていると、案外自分は作家に向いているのではないか……と錯覚してしまう。実際に恐怖小説作家になったならば、暫くネタに困らないくらいには様々な体験談を抱えているのだが、圧倒的に足りない物があった。
それはリアリティだ。巽は人の体験を聞くことには長けていたが、自分が体験したものは驚く程に少ない。それは人生的な経験もそうだが、唯一自分が人と違うと言えるものに対してもだった。
思えば、沢山の体験談をその脳裏に仕舞い込み、保持して来たが自分が経験したものはその中にはひとつも無かった。驚くべき事だが、こんなにも恐ろしい体験談が寄ってくる体質だと言うのに、怪異の存在だけは巽の目の前を避けて暗闇へと消えていく。
逆に不気味とも言えるが、そうなると、人々が語る体験談は巽にとって何処か対岸の火事であり、他人事であり、リアルに欠けるのだ。
やはり作家になるにはそこが境界線になる気がした。フィクション作品を書くのが得意な作家ならば問題など無いが、巽にはそんな能力は無い。ただ事実を淡々と伝えていく、そんな能力しか持ち合わせていなかった。
ふと、彼は思う。今回甥に頼まれて記憶を探ってみたが、それを百繰り返せば、自分の目の前にも怪異が訪れるのではないかと。
今まで傍らにいながら、決して巽に触れてこなかった存在と、向き合うことが出来るのではないかとそんな事を思って……馬鹿馬鹿しいと思い直した。
あくまで他人事であるからこそ、自分は冷静で居られるのだ。もしそれが我が身に降り掛かったら……それこそ、この脳に収めている記憶に触れる事すら恐ろしくなってしまうだろう。実際、そうなった時自分は耐えられるのか……自信がなかった。
それから巽は記憶を辿り、幾つかの物語を書き起こした。数日が経った頃、その物語は一冊の本が出来上がりそうな量になった。
その中から、甥に教えても問題が無さそうなものを選んで、データにまとめUSBメモリに入れる。巽の家にはプリンターが無いので、これをコンビニに持ち込んで、印刷すれば彼の作家ごっこも終了だ。こうして彼は今までと同じように、代わり映えの無い日常に戻っていく。
その筈だった。

コンビニに行くついでに、明日の朝食と今日の夜食も買ってこよう。そう思った彼は簡単に身支度を整えると、尻ポケットに財布をねじ込み、USBメモリを握って部屋を出ようと玄関へ向かう。備え付けられたキッチンを抜けて、廊下を抜けようとした時……それに気が付いた。

暗闇の中に、何かが居る。

気が付いた瞬間、急激に血の気が顔から引いた。
にもかかわらず、心臓は早鐘のように煩い。馴染み深い我が家に急に現れた異物に、対応出来ず身体がふらつく。
しばらくして、そうだ、明かりをつけようと思い立った。明かりが灯れば冷静になれる。きっとそうだと自分に言い聞かせて、スイッチを捜す。
何時もより手間取ったが、無事スイッチに手が辿り着いた。嗚呼、これで何とかなる。きっと暗闇の向こう側の気配は気の所為で、自分は日常に帰ることが出来る。
果たして……その願いは叶わなかった。
無機質な蛍光灯に照らされた廊下に居たのは、膝を折りたたんで座る、ミイラの様な人影だった。
カサカサとした肌色は蛍光灯が作り出した白に照らされて、もはやおぞましい灰色に見えた。それは何か、およそ人の言葉の様には思えない呻き声を上げながら、玄関前の廊下に縮こまっている。
巽は一時もそれから目が離せなかった。
握り締めたUSBが汗にまみれても、シャツの背中部分が冷や汗でびしょ濡れになっても、動くことが出来なかった。
巽の中で、今まで聞いた人々の体験談が巡る。思い出せ、この中に何か対策になりそうなものはないか。しかし、無情にも求めるそれは見つからず、目の前の怪異はゆっくりと立ち上がり、緩慢な動きで廊下の真ん中に立った。
ぽっかりと開いた空洞の様な目と、縦に裂けた唇から汁がこぼれ落ちる。その様子が明らかに人間でない事を物語って居て、巽を絶望の縁に追い詰めていく。
考えれば考える程、そいつは一歩ずつ後ずさる巽と距離を詰めていく。成程、自分の頭に入ったこれらは怪異の呼び水なのだと巽が気付いた頃には、そいつは巽の目の前でうじゅるうじゅると口の様な何から液を垂れ流していた。

目の前の怪異と顔を合わせながら、巽は嗚呼、百物語の伝説は馬鹿にできないな、と他人事のように思って乾いた笑いを零したのだった。

そして不幸な事に、彼は二度と穏やかな日常に戻る事は出来ないだろう。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。