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雲ふたつ

ジャンル: その他 作者: 吾妻千聖
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雲ふたつ

 携帯のアラームの音量が嘘みたいに大きく聞こえたかと思ったら、目を覚ました時に目の前に携帯電話が置いてあった。
昨日の夜、好きな男の子に送ったメールの返事を待っていたらそのまま寝てしまったらしい。ちなみに返事はまだ返ってきていなかった。少しだけがっかりしてベッドから降りる。残暑はとうに落ち着いたものの、秋の空気はまだ冷気というものを知らないようで、目覚めやすい気候が続いていた。
 二階の自分の部屋から一階のリビングに降りていくと、高校生の姉が焼きたてのトーストにバターを塗っていた。
「あ、起きたんや。おはよ。」
「おはよう。お姉、なんでこんな早起きなん。」
「何言うてるん、もう十時やで。全然早起きちゃうよ。あ、食パン焼く?」
「うん、焼いて。」
どうやらさっき聞いたアラームは八時に鳴るはずの一回目のアラームではなく、二回目に設定した方だったらしい。自分はどれだけ深く眠っていたのだ。ノンレム睡眠ってやつか。あれ、どっちが深い方だっただろうか。
「バター無くなっとったから、あんたのはマヨネーズ塗ってマヨパンにしといたよ。別にええやろ?」
言いながら、姉はトーストに齧りついた。カリ、という乾いた音がテレビもつけていない静かなリビングに響いた。
「うん、それ好き。ありがとう。」
焼きあがるまで暇なのでテレビのスイッチを入れた。なぜか休日の朝はテレビ番組がしょうもないので、とりあえずニュース番組以外ならなんでもいいやと旅番組をつけた。旅に興味が無さそうな姉もテレビの方を向いた。チャンネルを隣のボタンに変えるだけで、液晶の中の世界は遠い世界の紛争を映し出したり、平和な旅の映像を流したりする。リモコンの僅か数ミリの間隔だけで、こんなに世界が変わることがおかしかった。姉がテレビを見て笑った。トーストが焼きあがる音がした。
 
 部活に行くという姉を送り出し、二人分の食器を洗っていたら携帯の着信音が鳴った。片思い中の彼からだろうかという淡い期待を抱いて、泡だらけの手を急いで洗ってからディスプレイを確認する。親友の名前が映し出されていた。彼からの連絡では無かったが、がっかりはしなかった。
「朝からどうしたん。」
「麻衣!出るの遅いわ。今から急いでいつもの河原来て!」
「なんで?明歩、今何してんの?」
「それは今ちょっと言われへん!いいから早く。とにかく待ってるで。」
電話は一方的に切られた。

 歯を磨いて着替えるだけの支度は五分で完了した。具体的な要件は聞かされていないが、一方に「来て」と言われれば何の疑問も無くとにかく向かう。明歩と私はお互いそういう気軽な仲だった。家から歩いて十分ほどの河川敷に自転車で向かった。すぐに河川敷の階段に腰掛ける明歩の姿が目に入った。周りには誰も居なくて、離れたところから見た明歩は黄昏ているようにも見えた。
数メートルほどの距離まで近づくと、明歩はこちらに気がついてニッと笑った。手に見覚えの無い大きな荷物を抱えていた。
「何それ?」
「ギター。買ってん!」
アコースティックギターというものらしい。大きなその楽器と小柄な明歩の組み合わせがなんだかアンバランスだった。明歩は思い付きでよくわけのわからないことをするので今回もそのパターンだろうと思った。
「弾けるん?」
「全然。」
全くそのパターンだった。
「ていうか、初めからギターめっちゃうまいやつとかおらんやろ。買ってから練習するんやん。」
それもそうか。なんか鳴らしてみて、と私が言うと、明歩は適当な位置で弦を抑えて、でたらめにストロークしながら流行りのJPOPを歌い始めた。
「歌えとは言ってないし。ギターの音、曲と全然合ってへんで。」
「うるさいなあ。弾けてなくても、自分は今めちゃめちゃ弾けてる、と思って歌ったら気持ちいいねん。麻衣も一緒に歌って。」
傍から見ていて滑稽すぎたので気が引けたが、明歩がわけもわからず楽しそうなのと、幸い周りに誰もいなかったので試しに歌ってみることにした。
「そうそう。その調子や。麻衣、上手いやん。」
そんなわけあるかと思ったが、無茶苦茶なのに意外に楽しかった。明歩の上機嫌にあてられて私からもひとつ提案してみることにした。
「今度は、即興でオリジナル曲作って歌およ。」
「それいいな。じゃあ、うちが適当にギター弾くから順番に歌っていこ。」
「あんたのギターは元から適当や。」
二人で笑いながら明歩のギターに身を委ねる。明歩から歌い始める。
「明日は日曜。どこへ行こうかな。」
「いきなりダサっ。」
「うるさいわっ。…そよ風に誘われて出かけよう。」
次は私の番らしい。思いついた歌詞に音階を授けて拙いメロディを紡ぐ。
「君とならきっと何処でも楽しい。羽が生えたみたいに心が軽い。」
明歩は我慢できずといった風に噴き出した。
「羽って。あんたは、詩人か。」
指摘されて恥ずかしくなったが、私も明歩の歌詞を思い出して笑った。暫く二人で笑い転げた。少しずつ河川敷を歩く人が増えてきた。気が済むまで笑った後で明歩が、
「なんか、めっちゃ楽しかった、今。」
「うん。私も。」
「今はまだこんなアホみたいな歌詞とギターやけどさ、めっちゃ練習してすんごい上手なってさ、もしかしたら二人で歌手とかなってたらどうする?笑うよな。」
明歩がいつもみたいな、ただのおふざけだけで言ってるわけじゃないことは、横顔を確認しなくてもわかった。将来をぼんやりと意識し始める中学2年の秋だからだろうか。
「今のこと、もし万が一歌手になったとしても一生忘れへんと思うわ。」
「万が一、の使い方間違えてるで。」
 未来とか、将来自分ができることとか、中学生の私たちには想像も及ばない領域で、不確実で不安定に浮かぶ、目の前の嘘みたいに真っ白な雲のようだと思った。
「でも私、一個だけ将来に約束できることあるで。」
この先、私が何者になっていようと。
「え、なに?」
「内緒や。」
風が吹いた。真っ白な一つの雲が柔らかく分裂して、小さな二つの雲になった。そうして二つ並んだまま、大きな空を永遠にどこまでも流れてゆくように思った。
澄んだ空気の秋は、遠く空が高い。
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