第拾壱話
しばらく進んで、ヒルダははたと足を止める。
思い出をなぞるのも、一旦中断した。
おかしい。違和感に気づいて顔を顰める。
「魔物が死んでる」
ヒルダの進路である獣道には幾つもの影。そのどれもが赤く染まり異臭を放っている。魔物の死骸だった。注意深く歩を進めると、粘着質なおぞましい音と滑る何かが靴の裏に擦れる不快感がヒルダの眉間に皺を寄せた。
死骸の傍に屈むが腐臭はしなかった。槍の穂先で死骸を仰向けに転がし腹部を曝す。深く切刻まれた毛皮の合間から、照りだす赤い肉が露出している。そこから赤黒い血液が溢れだしており、絶命してからまだ時間はそこまで経っていないようだ。予想はしていたが、明らかに人為的な傷だった。
「これがピクシーの幻覚? それとも、誰かがいる……?」
何とも言えない不気味さを感じながらヒルダは屍の転がる暗い道で佇んだ。神経を研ぎ澄ませ、どこから攻撃が来ても対応ができるように槍の柄をしっかりと握る。
刹那、彼女の五感が何者かの気配を捉えた。
「誰だ!」
やはり誰かいた。
背後の茂みを睨みつけ、いつでも反応できるように身を屈める。
こんな危険な森の深部に足を踏み入れる人間。人のことを言えた義理ではないにせよ、一般人ではないだろうと見当をつけてヒルダは槍を構える。最悪の場合、これから対峙するのはピクシーの作り上げる幻影かもしれない。
……が、茂みの奥からひょいと覗いたその顔に、ヒルダは思わず槍を取り落としそうになった。
「ヒルダ?」
その声も、その顔も、その剣も、知っていた。
「なんで……ここに……?」
「それ、こっちの台詞でもあるんだけど」
そう言って、シグルス……ジークフリードは困ったように笑った。
ずっと頭を占めていた彼の存在が、こんなところで、こんなタイミングでひょっこり現れるなど、誰が予測し得ようか。ヒルダの思考は混乱を極め、崩れた体勢のままヨロヨロと数歩後ずさった。
まだヒルダが少し警戒していることが伝わったのか、彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。久々に交わした会話はひどく間が抜けていて、血に塗れたこの場所にそぐわないほど和やかだ。
「ここは危ない。ピクシーのテリトリーだ。知ってるだろ?」
「……そっちこそ。わかっていながら、なんでここにいるの?」
「……俺、は」
少し言い淀んで、ジークフリードは視線を逸らす。その様子にヒルダは心の中の霞が再び膨らんでいくのを感じた。
そう、その顔。全てを拒絶するような、その目。
「結局、もう私には何も頼れないってことね?」
気付けば口から出ていた言葉に、言った当人もジークフリードも瞠目する。心の霞が濃くなっていく。もやもやもやもやと。このまま全身を飲み込まれるのかもしれない、とヒルダは言い様のない恐怖に駆られた。
虚ろな目でジークフリードの顔を見上げれば、彼はなぜか傷ついたような顔をしている。ジークフリードは声もなく唇で空気を数回食んで、一泊遅れて掠れた声で大きく叫んだ。
「違っ……違う……!」
「違う? 何が違うの!」
ヒルダも思わずヒステリックになって大きく叫び返してしまった。
その時にはヒルダは心を覆う霞の正体が何となくわかっていた。拒絶される悲しみ。伸ばした手が彼に届かない切なさ。もう彼を理解することができないという絶望。ヒルダの世界から彼が消えていく不安感。友人であることを否定される恐怖。それら負の感情が綯い交ぜになったものこそが彼女を蝕む霞の正体だった。
彼との境界線を感じれば感じるほど、それは大きくなる。
「ヒルダ……」
小さく呟いた彼がどんな顔をしていたのか、叫んだきり俯いてしまったヒルダには知る術もない。ただ後に聞こえたのは彼が息を呑む音と、息を吸う音。
「ごめん」
そして謝罪の言葉。
まさか謝られるなどとは思ってもみなかったヒルダは弾かれたように顔を上げた。そこに見えたジークフリードの辛そうな表情に愕然とする。
「全部、話す」
思い出をなぞるのも、一旦中断した。
おかしい。違和感に気づいて顔を顰める。
「魔物が死んでる」
ヒルダの進路である獣道には幾つもの影。そのどれもが赤く染まり異臭を放っている。魔物の死骸だった。注意深く歩を進めると、粘着質なおぞましい音と滑る何かが靴の裏に擦れる不快感がヒルダの眉間に皺を寄せた。
死骸の傍に屈むが腐臭はしなかった。槍の穂先で死骸を仰向けに転がし腹部を曝す。深く切刻まれた毛皮の合間から、照りだす赤い肉が露出している。そこから赤黒い血液が溢れだしており、絶命してからまだ時間はそこまで経っていないようだ。予想はしていたが、明らかに人為的な傷だった。
「これがピクシーの幻覚? それとも、誰かがいる……?」
何とも言えない不気味さを感じながらヒルダは屍の転がる暗い道で佇んだ。神経を研ぎ澄ませ、どこから攻撃が来ても対応ができるように槍の柄をしっかりと握る。
刹那、彼女の五感が何者かの気配を捉えた。
「誰だ!」
やはり誰かいた。
背後の茂みを睨みつけ、いつでも反応できるように身を屈める。
こんな危険な森の深部に足を踏み入れる人間。人のことを言えた義理ではないにせよ、一般人ではないだろうと見当をつけてヒルダは槍を構える。最悪の場合、これから対峙するのはピクシーの作り上げる幻影かもしれない。
……が、茂みの奥からひょいと覗いたその顔に、ヒルダは思わず槍を取り落としそうになった。
「ヒルダ?」
その声も、その顔も、その剣も、知っていた。
「なんで……ここに……?」
「それ、こっちの台詞でもあるんだけど」
そう言って、シグルス……ジークフリードは困ったように笑った。
ずっと頭を占めていた彼の存在が、こんなところで、こんなタイミングでひょっこり現れるなど、誰が予測し得ようか。ヒルダの思考は混乱を極め、崩れた体勢のままヨロヨロと数歩後ずさった。
まだヒルダが少し警戒していることが伝わったのか、彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。久々に交わした会話はひどく間が抜けていて、血に塗れたこの場所にそぐわないほど和やかだ。
「ここは危ない。ピクシーのテリトリーだ。知ってるだろ?」
「……そっちこそ。わかっていながら、なんでここにいるの?」
「……俺、は」
少し言い淀んで、ジークフリードは視線を逸らす。その様子にヒルダは心の中の霞が再び膨らんでいくのを感じた。
そう、その顔。全てを拒絶するような、その目。
「結局、もう私には何も頼れないってことね?」
気付けば口から出ていた言葉に、言った当人もジークフリードも瞠目する。心の霞が濃くなっていく。もやもやもやもやと。このまま全身を飲み込まれるのかもしれない、とヒルダは言い様のない恐怖に駆られた。
虚ろな目でジークフリードの顔を見上げれば、彼はなぜか傷ついたような顔をしている。ジークフリードは声もなく唇で空気を数回食んで、一泊遅れて掠れた声で大きく叫んだ。
「違っ……違う……!」
「違う? 何が違うの!」
ヒルダも思わずヒステリックになって大きく叫び返してしまった。
その時にはヒルダは心を覆う霞の正体が何となくわかっていた。拒絶される悲しみ。伸ばした手が彼に届かない切なさ。もう彼を理解することができないという絶望。ヒルダの世界から彼が消えていく不安感。友人であることを否定される恐怖。それら負の感情が綯い交ぜになったものこそが彼女を蝕む霞の正体だった。
彼との境界線を感じれば感じるほど、それは大きくなる。
「ヒルダ……」
小さく呟いた彼がどんな顔をしていたのか、叫んだきり俯いてしまったヒルダには知る術もない。ただ後に聞こえたのは彼が息を呑む音と、息を吸う音。
「ごめん」
そして謝罪の言葉。
まさか謝られるなどとは思ってもみなかったヒルダは弾かれたように顔を上げた。そこに見えたジークフリードの辛そうな表情に愕然とする。
「全部、話す」
※会員登録するとコメントが書き込める様になります。