ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

ペパーミント

原作: 名探偵コナン 作者: 新名かおり
目次

コーヒーの染みは落ちにくい

店の外から偵察しているときにはわからなかったが、喫茶ポアロはこの賑わいにもかかわらず、マスターと梓さんの2人で切り盛りしていた。
 
 梓さんが会計をしているときにはマスターが料理を運んだり、梓さんの手が開けばキッチンに入るなど息ぴったりで連携できている。
 しかし、さすがに2人では限界がある。マンパワーへの負荷が大きく、ぎりぎりで店を回していることは明らかだった。

  常連だろうか、わざわざ皿をカウンターまで下げ「梓ちゃん、お勘定ちょうど置いとくよ!ごちそうさま~」と帰る客も少なくなかった。

 この状況なら、こちらの条件を飲ませることも容易だろう。マスターはエルキュール・ポアロが好きなようだから、彼に憧れて探偵になったというのはどうだろうか。本業が探偵ならば休む口実にもなりそうだ。毛利小五郎に弟子入りして…

 そう計画していると、温かい匂いがフワッと鼻先を掠めた。

「お待たせしました。ナポリタンとセットのサラダです」

 梓さんは別の客対応をしていたため、マスターが注文の品を持ってきてくれた。ソーセージ、玉ねぎ、ピーマンというオーソドックスなナポリタンだ。太めの麺がケチャップでつやつやと輝き、白い湯気をまとって僕を誘惑してくる。

「お客さま、いらっしゃるの初めてですよね。すみませんバタバタしちゃってて。今、人手不足でして。ナポリタンはうちの看板メニューなんですよ。もし気に入っていただけたら、またいらしてくださいね」
  マスターは人の好さそうな笑顔でそう言うと、足早にキッチンへ戻っていった。

 「いただきます」
 手を合わせてから水を一口飲み、さっそくナポリタンを頬張る。
 美味い。素朴で優しい味わいだが、野菜の歯ごたえが心地良くケチャップがしっかり麺に絡んでいる。隠し味には。

 …そういえば僕、昨日から食事してなかったんだ。一口食べたところで、まる一日思考に集中して忘れていた空腹を思い出した。本能に突き動かされてじんわり汗をかきながら、まるで成長期の少年のように夢中でナポリタンに食らいついた。


 あの看板娘に人の好さそうなマスター、懐かしいナポリタンにこだわりのコーヒー、落ち着いた雰囲気。
 駅から離れた辺鄙な場所なのに、人気が出る理由がよくわかった。潜入先でなければ僕が行きつけにしたいくらいだ。ナポリタンを食べ終え食後のコーヒーを味わっている頃には、僕はただの客としてすっかり喫茶ポアロのファンになってしまった。 

 潜入の計画はひとまず目処が立った。長居は無用だ。店内のピークが少し落ち着いたのを見計らってレジに向かう。「ありがとうございました!」と梓さんがカウンターからパタパタとやってきて会計を済ませてくれた。

「あの…、お客さま、風邪ですか?私よく喉が痛くなるのでいつもコレ持ち歩いてるんです。ちょっとはラクになると思うので、良かったらどうぞ!」

 そう言ってレシートと一緒に渡されたのは、龍丸散のど飴だった。実に渋いというか色気が無いというか…。梓さんの第一印象からは、もっとキラキラしたのを持っていそうなイメージだったんだけどな。プロファイリングには自信があったのだが、梓さんはあっさり僕の経験則を越えてきた。そのギャップがなんだか可笑しくて、思わず吹き出しそうになってしまう。

 飴を受け取ったときに触れた指先は冷たかったが、心には暖かな明かりが灯った。一見客のちょっとした言動に気づかいできる梓さんの洞察力と優しさに思いを巡らせる。そうか、僕の注文を聞いた時に梓さんが固まっていたのは、こういう事だったのか。僕は掌の飴をそっと握りしめた。

「ありがとう。ナポリタンもコーヒーも美味かったです。ごちそうさま」
 余計なことだとわかっているのに、つい声をかけてしまった。
「ありがとうございました!お大事にしてくださいね。またお待ちしてます!」
 梓さんの縒れた笑顔が、コーヒーの渦に溶けて心に染みていく。コーヒーの染みというのは、一度ついてしまったらなかなか落ちないのだ。

 店を出た僕は本来の目的をしばし忘れていた。優しいナポリタンで満たされた身体と、優しい言葉で満たされた心を全身で味わってみる。なんて穏やかな午後なんだろう。何故梓さんは、ポアロは、僕をこんなふうにさせるんだろう。こんな夢のような気持ちは少しだけで変わってしまうと思っていたのに。


 5月の米花町は日差しこそ強いものの、街路樹の陰に入ればひんやりと涼しい。サラッと湿り気のない風が頬をすり抜け、プラタナスの葉をさわさわと揺らしている。立ち止まって、うんっと伸びをした。

 そうだ、と思い出し彼女から貰った飴を口に入れた。溶けてなくなるまで、幸せな余韻に浸っていることを自分に許してやろう。

 正面からやって来た三毛猫が歩みを止め、僕を見上げてニャーと鳴いた。雑誌で見たのと同じ特徴的な背中の模様。大尉だ。

 大尉もこれからポアロでランチなのか、尻尾を揺らしながら僕が来た方へと歩いていった。近いうち、君は僕のお得意様になるんだな。その時はよろしくな。

 大尉の背中に向かって心の中で声をかけた。舌に残ったペパーミントの香りは、涼やかでほんの少しだけ甘かった。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。