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飛ぶ鳥の影

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 志の字
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6話

 授業時間はどちらかといえば嫌い。勉強は難しいし、運動や芸術はうまく行かなくて。
 わたしはあまり、物事を上手にこなせる方じゃない。何でも人並み以上にできてしまう雨宮さんのような人とは正反対の人間だ。
 ただそんなわたしでも、ひとつだけ、興味を持てる授業があった。
 人には向き不向きというものがある。その授業は、私のとって数少ない「向いている」ことのひとつだった。
 ピアノの伴奏が耳朶を優しく撫でる。
 音楽が耳から私のなかに入ってくる。頭の中で反響し、胸まで降りてきて、心臓の鼓動とひとつになる。テンポが変わるたびに、それの繰り返し。なにもしなくとも、心音と音楽のリズムが重なっていく。
 私はただ呼吸をするだけ。
 吐いた息が、声になる。何も意識することはない。
 幼いころ、いつも母がピアノを引いてくれていた。ピアノを引けない私は、ただ音楽を口ずさんでいた。
 やがて私は舞台に立って歌を歌うようになった。その頃には、伴奏席にいたはずの母は観客席にいて。そのことがたまらなく寂しかったのを覚えている。
 それでも歌い続けたのは……母が聴いてくれていたから。褒めてもらいたくて上手に歌えるようになった。それが……母がいなくなってから、声楽を続ける意味を見失ってしまった。
 歌うことは辞めてしまったけれど、嫌いにはなれなかった。
 母との大切な思い出だったから。
 捨てられるわけがない。
 私の歌唱が終わると、大きな拍手が音楽室に響き渡った。私は会釈をして小さな舞台を降り、自分の席へと戻る。
「結塚さん、すばらしい独唱でしたね。声楽でもされていたんですか?」
 中年女性の佐々木先生が私に質問を投げかけてきた。物腰が柔らかい彼女の授業は、生徒からも評判がいい。
「……はい。昔ですけど」
「そうでしたか。こんなに上手なら、とても頑張っていたんですね」
 佐々木先生は目尻にシワを作って、優しげに微笑んでいた。微笑みながら、私を褒めて……その光景が、いつかの日の記憶に重なって見えて。
 ずきんと、こめかみに鋭い痛みが走った。
 ……捨てられないだけ。いつまでも私はその場所に囚われている。どうしたって、抜け出すことが出来ない。
「……ありがとうございます」
「結塚さん? 具合が悪いようでしたら……」
「いいえ。大丈夫です」
 景色でも見て落ち着こうと周囲を見渡したが、音楽室に大きな窓はない。
 ふと、雨宮さんがこちらを見ているような気がした。視線がこちら側に向いていた……気がした。
 気のせいに決まっている。雨宮さんが私を気にする理由なんて無い。もし私のことを見ていたとしても、ちょっと、注目を浴びたから……ただ、それだけ。
 次の発表者が小さな舞台に上がった。


  ♪


 音楽の授業が終わり、昼休みに入る。教室に帰る途中の廊下で、後ろから声をかけられた。
「悠ちゃん、すごかったね。一番だったよ」
「……綾海」
 綾海の後ろには……雨宮さんがいた。いつもどおり、ふたりで行動しているようだった。
 ただ、こうしてふたりで居るときに、私に話しかけてくるというのは初めてのことだった。
「一番って言っても、歌唱は3人しかいなかったから」
「他の二人は合唱部でしょ? 楽器とか歌唱とか抜きにしても、悠ちゃんが一番だったよ」
 授業の発表会のテーマは、音楽で自己紹介を、というものだった。新しいクラスで親睦を深める目的があるらしい。
 1年次の音楽の授業では、合唱はあったがソロでの歌唱はなかった。クラスメイトの多くは1年の授業で習ったものを披露する、という形で、ピアノや弦楽器による演奏が多かった。そんな中で、あえて私が歌唱を選んだのは……たぶん、雨宮さんに対する見栄だったと思う。
「あとは、日鞠のピアノも同じくらいすごかったよね。昔、ピアノ習ってたんだよね、日鞠」
「うん」
 雨宮さんはか細い声で、ぽつりと一言返したのみだった。無表情のまま、関心もなさそうに。
「わたし、日鞠のピアノ、すごく好きなの」
 私はといえば……喉から、声が出なくて。私も雨宮さんのピアノが好き、なんて、言いたかったけれど。
 雨宮さんのピアノは繊細で、時に激しく、飲み込まれそうな迫力があった。小さく物静かな彼女がここまで力強くなれるんだ、とぼんやり思った。音楽を趣味にしている生徒と比べれば技術は拙かったものの、技術不足を物ともしないエネルギーが、確かに感じられた。
 彼女が本気で音楽に取り組めば、彼女の描く絵画と同じように、人の心を動かす作品を生み出せるに違いなかった。
「ね、悠ちゃんもそう思うよね。きっと、日鞠は音楽の才能もあるんだよ」
「……うん、そうだね」
 綾海も、私と同じことを感じていた。けれど、返す言葉はちっとも感情がこもらなかった……上手く、いかなかった。
「私、お手洗いいくから。またね」
 それだけ、なんとか愛想笑いを作って、小さく手を降って綾海と別れた。
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