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飛ぶ鳥の影

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 志の字
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3話

 新しい教室に向かう途中、私はどこか上の空で千恵と話していた。
 緊張、不安、恐れ……そういったものが、肩にずっしりとのしかかってくる。いままで遠くで眺めていただけの彼女が、今日からクラスメイトになる。廊下ですれ違うときですら、緊張で胸が張り裂けそうで、顔を見ることも出来なかったのに。
 これからは違う。同じ教室で勉強をして、授業の一環で言葉を交わすことになるかもしれない。どうしてだろう、私はそれを心のどこかで期待していたはずで。
 彼女の絵を間近で見ることができる。同じ学校に通うことができる……いままでの学生生活に満足していた。だからかもしれない。安定した今までの暮らしが、なにかの拍子にバランスを崩してしまう気がして。
「大丈夫だよ。雨宮さん、ちょっと怖そうなところあるけど、悠ならすぐ友だちになっちゃいそう」
「……それはどういう評価?」
「悠はなんだか弱くて話しやすいから。きっと雨宮さんも警戒解いてくれるんじゃない?」
 ……褒められていたと思ったら、貶されていた。私がからかわれるのはいつものことだ。
 千恵のちょっとした冗談のおかげで、少しだけ気が紛れた。こういうところはやっぱり付き合いが長いからこそだと思う。
「じゃあね、頑張ってね」
「うん、ありがとう。千恵」
 手を振って千恵と分かれる。一人になって気が重くならないうちに、教室の引き戸を開けた。がらがらと、重苦しいような音がした。
 教室は雑談をする生徒の声で満たされていた。
 新しい教室というのは不思議な空気だ。山白女学院は一クラスが15人前後しかいない。喧騒というほど騒がしくはないが、静かでもない。前のクラスからの友人と仲良く談笑している生徒もいれば、新しくクラスメイトになった者同士でどこかよそよそしい世間話を交わしている者もいる。
 黒板に一枚のプリントが貼ってあり、そこに席表が載っているらしかった。
 自分の名前は、窓際の後ろ側に書かれていた。対して、彼女の席は廊下側前列。ほっと息をつく。同時に、心の片隅で、彼女と席が離れていれば、と願っていた自分に気づいた。
 ……ああ、わかった。私は彼女が怖いんだ。
 近づくのが怖い。憧れというものは、奇妙な形をしている。怖い、だなんて思うとは想像もしなかった。
 自分の席に着くと、かばんを机の横にかけて窓の外へ視線をやった。絶好の席だった……空が見える。ついつい見上げてしまう自分がいる。
 がらがらと教室の引き戸が開く音がした。私はそれについて気にもとめなかった。始業前に人の出入りがあるのは当たり前だ。自分だって、今しがた扉を開けてこの教室に入ってきた。
 けれど、その音がした直後に、教室の空気が一変したのを感じた。
 私は思わず教室の扉の方へ視線を向けていた。それはごく自然な反応だった。
 ……ふたり。ふたりの生徒が教室に入ってきた。ひとりは背が高くスタイルの良い、茶髪のセミロングの生徒。もうひとりは小柄な黒髪の生徒……雨宮さんだった。教室の雰囲気が一変したのは、そのふたりが現れたからだ。
 雨宮さんの隣にいる彼女……天野綾海もまた、学院では有名な生徒のひとりだった。
 雨宮さんは普段、一人でいるか、でなければ天野さんと一緒に行動をしている。天野さんと雨宮さんは家の関係で付き合いがあるそうだ。幼馴染というほど単純ではないそうだが、おおよそそういうものらしい。
 ふたりは黒板の貼り付けられた席表で自分たちの席を確認すると、それぞれの席へ向かった。雨宮さんは廊下側の席へ。天野さんは……私の、隣だった。
「悠ちゃん。よろしくね」
「え……」
 まさか突然、こんなふうに話しかけられる日が来るなんて……夢にも思っていなかった。
 私は口を開けたまま、思わず呆然としてしまった。すぐに我に返って畏まった。
「えっと……よろしくおねがいします。天野さん……ですよね」
「あれ、私の名前、知ってたの? 結塚悠さん」
「え? え、えっと……いいえ、あの……それは」
 つい言葉に詰まる。彼女の名前は有名だ。普段からあの雨宮日鞠の隣を歩いているのだから、噂にもなる。それをうまく説明できなくて、しどろもどろになってしまった。
 ……そうじゃなくて……この人こそ、初対面なはずの私の名前を知っているのに。
「えへへ。ごめんね、意地悪しちゃって」
 悪気なんて一切ないように、天野さんは柔らかく微笑んだ。
 まるで毒気を抜かれたようだった。こんなに屈託なく笑う人だったんだ、というのが素直な感想だった。
 雨宮さんがいつもしんとした空気を纏っているから、私の目には隣にいる彼女までおとなしく見えていた。実際に、雨宮さんの隣を歩いているときの彼女は、そうだったかもしれない。無表情の雨宮さんに、静かに微笑む天野さん、という印象が強くあった。
 突然、下の名前で呼ばれて……微笑みかけられた。遠くにいるはずの人が、突然近くに来たような、そんな気がした。
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