ネット喫茶.com

オリジナル小説や二次創作、エッセイ等、自由に投稿できるサイトです。

メニュー

飛ぶ鳥の影

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 志の字
目次

1話

 ちっぽけでなにも持たない私。
 歩むための動力を失った、止まったままの人形。
 そんな私のからっぽの心を、溢れるまで満たしたのは……『空』だった。
 例えようもないほど広く、遠い。この世の何よりも大きい。それは地球よりも、太陽よりも大きい。
 文字通りの無限で、果てなんて存在しない。
 ある日、そんな大きさの物体が、隕石みたいに降ってきて。
 流星のような勢いを帯びたまま、なんの抵抗もなく、なんの隔たりもなく。
 無防備に口を開けた間抜け面の私の。広大な銀河からすれば、微生物みたいにちっぽけな私の。
 むき出しの心に、衝突した。


   ♪


 私は諦めることに慣れてしまった。
 時間と共にこぼれていく大切なもの。なにも得られず、失い続ける。そんな世界に慣れ始め、時は加速度を帯びる。
 あっという間に死んでいく私。
 死んだ私の時は止まり、進み続ける世界は私を置いてけぼりにする。なんて空虚だろう。胸が張り裂けそうな気持ちになる。どうにかしなくちゃいけないと、心が焦る。
 けれどそれに気付いた時、私の心と体はすっかり錆びついて、動かなくなっていた。
 ……歩けなくなっていた。
 母が消えた、あの日から。死の別離はありふれてる。数十年という長い人生のうち、死が訪れる日は、たった一日。そのたった一日は、いつか必ず、その人を迎えに来る。
 母は人間だ。だから、いずれ死んでいた。そのいずれが少し早まっただけに過ぎない。死とは決まりきった別離だ。
 だから……諦めた。諦めるしかない。時間の逆戻りでもしないかぎり、この問題は解決することはない。解答が用意されている問題ではないのだから。強いて言うなれば、諦める、という回答がなによりも正しい。
 私は弱い。人々は数ある死別を乗り切って、前を向いて生きていく。父だって、母が死んで半年はふさぎ込んでいたものの、今では以前と変わらない表情で日々を過ごしている。4年経っても立ち直ることが出来ない私が、特別打たれ弱いだけなのだ。
 誰しもが胸のうちに満たしている、生きる気力。私はそれをまるごと失った。
 心のなかに大きなからっぽができた。
 それからはずいぶんと空虚な日々を過ごしてきた。食べ物の味がしなくなった。母が死んだ直後はあんなに流していた涙も、すっかり出なくなってしまった。顔の筋肉がこわばって、笑うことが難しくなった。
 頭痛が止まなくなった。医者は効く薬を出してくれない。薬漬けになり、どうにか生きながらえる病人のようだった。
 でも……そんな日は、唐突に終わりを迎えた。
 ぽっかりとあいた心の空洞に、堰を切ったように流れ込んできた。見たこともないきれいな濁流。
 『空』。
 それは同い年の見知らぬ少女が描いた、絵画だった。
 絵とは、絵筆の描線が集まったものでしかない。白くて平たい板に、絵の具を乗せただけのもの。当時の私にとって、絵画とはその程度の認識だった。
 食卓で父が付けたテレビの番組で偶然、その絵が紹介されていた。賞がどうとか、偉業だとか、アナウンサーが興奮気味に話していたが、耳には入ってこなかった。キャンバスが液晶に映し出されていた。私の目は、脳は、その絵に釘付けになっていた。
 その青色は、液晶とキャンバスという2つの窓枠を隔ててなお、色褪せていなかった。
 空は100号のちっぽけなキャンバスの枠組みを突き抜けて、無限に広がっていた。文字通り、無限。果てがないとは、こういうことなんだと納得した。
 人の命には果てがある。人生には終着点が用意されている。街は、国は、地球は、有限の広さ持つものは、すべてちっぽけだ。
 見知らぬ少女の描いた『空』という絵は、それを知っていた。
 果てがなければどこへでも行ける。どこまでも続いている。ただひたすらに、遠い。……例えようがない。なぜなら、この世で最も遠く、大きなものだから。比較対象なんて存在しない。
 少女の描いたラピスラズリの青色は、この世の何よりも、綺麗だった。
 その一握りだけをもらって、がらんどうの私の心の中は、隙間もないほどいっぱいになった。果てない空のひとかけらが、私の心を溢れるまで満たしていた。
 そして私は、4年越しに、父にわがままを言った。
 わがままを言うということは、なにかしらに大なり小なり希望を抱いて、前に進む力があるということ。死んでしまったと思っていた私の心は、いつのまにか重い身体を起こし、歩み始めようとしていた。
 山白女学院。『空』を描いた彼女が、これから通うことになる学校。父に頼み込んで、私はそこへ通うことになった。
 空を見上げる癖がついてしまった。
 あのキャンバスに映っていた色と、まったく同じ青。それは凄まじい引力を持って私を引きずり込もうとする。
 胸を揺さぶられる。どうしたらいいのかが分からない、それでも、何かが私を突き動かしていた。
目次

※会員登録するとコメントが書き込める様になります。