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飛ぶ鳥の影

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 志の字
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10話

「ご、ごめんなさい」
 私はか細い声で謝った。か細い声しか出なかった。教科書を持つ手が震える。
「いいから。読んで」
 雨宮さんは私のことなんて眼中に入っていないように、無表情だった。あるいは、ただ呆れている。どちらにせよ……苦しい。
 英文に目を落として、読み上げようとする。
「ぁ……」
 うまく声にならない。喉が詰まって、空気が出てこない。
 ……彼女の生きている世界と、同じ世界で生きていると信じたかった。同じ学校に通った。同じクラスになった。だから、私は彼女と同じ世界にいるはずだと思いたかった。彼女が見ている世界に、彼女が描いてきた世界に。あの『空』がある場所と、同じ世界で生きているんだと。
 それは甚だずうずうしい思い上がりだった。彼女は私のことなんて見えていない。知っていたことだけれど、もしかしたら、ひょっとしたらと思っていて。私はずっと希望を胸に抱いていられた。空っぽの私が、どうにか前を向いて生きていられたのは、希望があったから。
 けれど今、それは粉飾されたものだと気づいた。紛れもなく、彼女は私と違う世界で生きている。
 だから向き合うのが怖くてたまらなかった。目の前にして、その事実を突きつけられることが、何よりも怖かった。近付けなくてもいいから、遠くで見守っているだけでいいと……そう望んだのは、私の粉飾された希望を壊さないため。
 ぱたん、と雨宮さんが教科書を閉じた。
 何も言わなかった。言う必要がないと感じたのだろう。
 私も、出ない声を出すのを諦めた。雨宮さんが呆れたように私を一瞥したように見えた。
 私が間違っている。彼女は何も悪くない。私のような人が相手なら、誰だって呆れてしまうだろう。勝手に期待して、勝手に動けなくなって……迷惑千万もいいところだ。
 罪悪感よりも、彼女にとっての悪者になった自分に、激しい嫌悪感が募る。頭が痛む。まるで、縄で強く縛られたみたいに……痛い。耐えられないほど、痛かった。


  ♪


 早退をしたのは数ヶ月ぶりのことだった。
 入学したての頃はよく頭痛を始めとする体調不良で、早退を繰り返していた。千恵がよく心配してくれた。体調不良は入学前からずっとあるものだから慣れていた。彼女と同じ学校に通い、展示された絵を眺めていくうちに、どんどん症状は軽くなっていった。最近では早退することも少なくなっていた。
 けれど……やっぱり、駄目なんだと感じた。
 私は何も変わっていない。彼女が空っぽの私に生きる力を分けてくれた。けれど、今ではもう分からない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、気持ちも考えも纏まらない。苦しさだけが胸の空洞を満たして、吐く息は黒く淀んでいるように見える。
 一度壊れた器は、もう元には戻らない。
 私が立ち直れた理由は何だったか。彼女の絵を見たからだ。こんな世界があるのだと、心を揺さぶられた。暗く沈んだ心のなかに光が差したようだった。私も同じ世界で生きているのだと、気付かせてくれた。
 私は、彼女が見ている世界に焦がれた。
 青。100号のちっぽけなキャンバスの枠組みを突き抜けて、無限に広がる空色。文字通り、無限。果てがない。人の命には終着点があり、街も、国も、世界も、有限でちっぽけだ。
 彼女の見ている世界は、そういうものだった。果てがない。果てがなければ、どこへだって行けるし、何にだってなれる。比較対象なんて存在しないのだから。間違いなく、この世で最も遠く、広く、大きいもの。
 私もその世界を見たいと思った。けれど……私には、見ることが出来なかった。ただ彼女が描いた絵画からその一欠片だけ貰って、空っぽの心の中を満たした。彼女の心はきっと、私みたいな不完全なものじゃなくて、本物の青色が詰まっているに違いなかった。
 だから……彼女に、少しでも近づきたいと思った。眺めるだけでもいいと思っていた。だから同じ学校に通った。
 だというのに、私は欲をかいた。ただただおこがましかった。
 失敗だった。私は彼女に近づいていいような人間じゃない。いつまでも夢を見ていればよかった。現実を知る必要なんてなかった。後ろ姿を眺めているだけで満足だったのだから。
「悠、夜ご飯の時間だよ」
「……今日は、いい」
「……そっか、ごめんね。先、行ってるね」
 布団の中でうずくまる。4年前も、ずっとこうしていたように思う。外に出ずに、暗くて空気の淀んだ部屋で。ずっと、ずっとそこにいた。ホコリが堆積するように、暗い感情だけが積もり続ける。今更積もりきったホコリを拭って掃除をするのは気が重い。ホコリが舞うと肺に入って喘息が起きるから。
 千恵には悪いことをした。良かれと思ってしてくれたことなのに。罪悪感を感じているのだろう、今日はしきりに謝ってくる。悪いのは全て私だと言うのに。
 頭が痛い。太いロープでぎゅっと締め付けられているみたいに。
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