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飛ぶ鳥の影

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 志の字
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9話

 週明けの一日。今日の午前中はずっとそわそわとしていた。
 落ち着かない。胸の見えない部分が痒いような気がして、喉の奥に詰まったもやもやとした何かを引っ掻きたくなる。何をしても集中ができない。普段、無意識で出来ていたことも、おぼつかなくなる。
 頭痛がする。嫌なことを考えてしまう。じんじんと痛む頭を、冷水に漬けてしまいたい。
 今日はいつもの革の鞄に加えて、キャンバストートを持ってきていた。
 キャンバストートの中にはラッピングされたチョコチップのクッキーが入っている。クラスメイト、全員分……もちろん、雨宮さんの分まで。
 休日に千恵や玲奈、雛子とひたすら焼いた。2クラス、自分たちを除いた計28人分。一クラスの人数が少ない学校で助かった。とか、どうでもいいことを話して挙動不審をごまかした。けれど、作っている間も心臓が逃げ出そうと跳ねるから、まったくうるさくてしかたなかった。
 授業に支障が出ないように、放課後に渡すつもりだった。失敗だったと思う。朝のうちに渡しておけば、こんなに気を揉むこともなかった。嫌なことは早めに済ませておきたい主義だ。
 嫌なこと……だと思う。
 拒絶されるのが怖いから。もし、怪訝な顔をされてしまったら。こうして考えるだけでも胸が締め付けられる。
 昼休みになると、千恵と待ち合わせて食堂へ向かった。千恵は普段と変わらない表情で私の隣を歩く。呑気でいいな、なんて考えてしまう。
「今日、帰ったら色々聞かせてよね」
「……はいはい」
 昨日から言われ続けている言葉だ。千恵はどうしても人の苦労話が聞きたいらしい。
「まったく。他人事だと思って」
「だって他人事だもん。わたしは楽しくて仕方ないよ。あと、羨ましい」
「まったく羨ましくなんてないよ。こんなにも代わって欲しいのに」
「えー、いいの? わたしも悠みたいに恋する乙女になりたいな~」
「だから、そんなんじゃないの。千恵って本当に意地悪。わたしがどれだけ……」
 なんだかんだいって、千恵と話すと気が紛れた。一人で居ると嫌な考えが頭の中でぐるぐると渦を巻くから。
「喜んでくれると良いね、雨宮さん」
「……うん」


  ♪


 午後の英語の授業は、またクラスメイトとペアでスピーキングを行うようだった。
 何度かこなすうちに慣れてきた。英語は苦手科目ではないから、落ち着いて話せばどうにかなる。ただやはり、緊張してしまう。次、雨宮さんと当たってしまうのではないかと、どうしても考えてしまう。一度そうなると、集中できない。
 そして、いつか来てしまう日は、よりによって今日らしかった。
 放課後、クラスメイトにお菓子を配る際、初めて雨宮さんと話す予定で……私はこの日、そのことで頭が一杯で。
 まさか今日がその日になるとは思いもしていなかった。
 初めて、雨宮さんと真正面から向き合った。雨宮さんの前髪は綺麗に切り揃えられていた。長い黒髪が、小さな鼻が、透き通った白い肌が……まるで日本人形みたいで。私の体格はごく平均に近いけれど、雨宮さんはその私よりも一回り小さく見える。身長自体は、私より少し低い程度なのに……彼女は、とても華奢だった。
 彼女の瞳をこんなに間近に見たのは、初めてだ。長いまつげの下、丸い黒色の中に、薄っすらとブラウンの色が見える。表面が少し濡れていて艶めかしい。どうしてか、目を離せなくなる。見ているだけできゅっと胸を締め付けられる。
「……あの。早く、始めない?」
 薄い唇から、言葉が発せられた。彼女の貴重な声を間近で聴いた。それから私は一歩遅れて、言葉の意味を理解した。
「あ、あ……ごめん、なさい」
 周りの生徒はもうすでにスピーキングを始めていた。
 ぼーっとしていた、というよりは、ただ動けないでいた。心臓がうるさく跳ねて、そのたびに嘔気が胸を突き破ってくる。今にも吐きそうだった。
 雨宮さんは私の準備ができるのを待っているようだった。無表情の中に、小さな苛立ちが見えたような気がした。
 教科書に目を落とす。これは、すでに読み上げたことのある英文だ。すっと背筋が冷えた。分からない。どのページを開けばいいのか。
「97ページ」
「あ……えっと」
「だから、97ページ」
「ご、ごめんなさい」
 嘔気に胸を圧迫されて、上手く声が出てこない。
 視線を落として教科書を見ると、私は別のページを開いていたらしい。87ページと書いてあった。慌てて教科書を捲る。95ページになったところで手を止めて、次の1ページを指で摘んで捲ろうとする。
「あ……」
 指先が冷たくて上手く捲れない。雨宮さんを待たせてしまっている。早くしなければと、焦って上手く行かない。ひたいに汗が浮かんだ。
 どうにかして、97ページを開くことが出来た。ようやくだった。
「あなたから、なんだけど」
 ふぅ、と雨宮さんが小さく息をついた。
 それはどんな意味を持っているのだろう。私には、ため息であるように思えて仕方なかった。
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