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飛ぶ鳥の影

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 志の字
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4話

「天野さん。わたしのこと、知っていたんですか……?」
 恐る恐る、天野さんに問いかけてみる。彼女は私の名前を知っていた。しかもフルネームで、読み方まで。
 天野さんが話しづらい雰囲気を纏っているから、というわけではなくて。むしろ彼女は不思議な安心感のようなものを纏っていて、引っ込み思案な私でも話しやすいタイプの人だ。ただ、今までずっと遠くにいた人だから……触れるのが、少し怖かった。
「これからクラスメイトなんだから、あまり堅苦しくならないで欲しいな」
「あの、ええと……ごめんね、天野さん」
 タメ口はなんだか話しづらい。彼女は、私よりもずっと年上のような気がする。同い年のはずだけれども……
「綾海でもいいからね、悠ちゃん」
「……あ、うん」
「ほら、最初の呼び方に慣れちゃうと、いつまでも天野さんになっちゃうでしょう? 途中で呼び方を変えるのって難しいし」
「あ……確かにそうかも。呼び方って、なかなか変えづらいもんね。天野さんのままじゃ仲良くなれない気がする」
「うんうん、最初が肝心。だから、私のことは綾海って呼んでね。悠ちゃん」
「うん、そうするね。綾海さん……でいいかな?」
「本当は呼び捨てが良いなー、なんて……まあ、いいんだけどね」
 彼女の笑みは猫みたいだった。姉のような安心感があるのに、どことなく子供っぽくもあって……それでいて、やっぱり大人びている。
「綾海。これでいい?」
「うん! これからよろしくね、悠ちゃん」
 不思議な人だと思った。私は一人っ子だ。年の近い姉がいたら、こんな感じなのだろうか、なんて考える。
 彼女とは初めて話すはずなのに、なんとなくその隔たりが感じられない。こうも垣根がないと、つい失礼なことを言ってしまわないだろうか。少しだけ心配になった。
 それからホームルームが始まって、新しい担任の先生が聞いても聞かなくても変わらないような、決まりきった年度初めの挨拶を始める。
 そういう話には、とくに耳を傾ける価値を感じなかった。私はいつからこんなにも捻くれてしまったのだろう。けれどなんとなく、これが大人になるということだろうと、分かったようなつもりでいる。
 私はあまり合理的な人間ではない。ただ、人の考えや思想を押し付けられて、それが自分の中に入ってこようとするのがたまらなく苦痛だ。自分の考えを変えたくない頑固者、なのだろうか。少し違う気がする。だって私は、私の考えが正しいとは思っていないし、自信家とは真逆の存在だとはっきり自覚している。
 ただ……ひとつ、確からしいことはある。私は心の奥底で、自分が考えることよりも、他人が説く教えよりも、ずっと正しいことが存在するに違いないと、何かを盲信している。
 私はいつでも正しくないし、世の中には正しくないことが多い。それはそれでしかたのないことだ。しょせん、私たちは人間なのだから。
 窓の外へ視線を向ける。
 どこまでも広く、遠い青色が広がっていた。
 心にぽっかりと穴が空いた寂しさを、今でも思い出す。それを沈めてくれるのはいつだって『空』だった。
 すぐ傍に、それを描いた本人がいるというのに……私は、彼女に目を向けることが出来なかった。


  ♪


 新しい学年と学期が始まった。一年生の頃は、友人は決して多くはなかったけれど、いないわけでもなかった。お嬢様学校とでも言うのだろうか。山白女学院には穏やかでのんびりした生徒が多い。あまり大人数で輪を作って賑わうような雰囲気ではなかった。
 二年時の私はといえば……あまり、友達作りというものに精を出す事ができなかった。
 気が乗らない、といえば、気が乗らなくて。
 学校が終われば、千恵と遊ぶこともできる。展示室に通う癖も治っていないし、第一、この学院は山奥にあって娯楽もほとんどない。繁華街と呼べるか分からない程度に栄えた地元の街まで、徒歩で2時間、バスで30分ほどかかる。簡単なショッピングはそこでもできるが、映画館などの娯楽施設を求めればさらに電車で30分かかる遠くの街へ行かなければならない。
 しいて言えば、学院内にコンビニほどの購買部がある。大きな図書館がある。それくらいだ。
 部活動に所属すれば、運動コートや楽器、画材などは使い放題らしいが、あまり興味が湧かなかった。一年生の頃、一度だけ美術部へ見学に行った。いろんな期待があったけれど、そこに雨宮さんの姿はなくて。私は肩を落として部室を後にした。彼女は趣味で絵を描いているわけではない。世界のアート市場を相手にしている、本物だ。学校という小さな枠組みで行われている部活動に、所属しているわけがなかった。
 先月の春休み、何をするわけでもなく寮に引きこもっていた私に、千恵は言った。
 「悠は無気力だね。もっと遊ぼうよ」と。何気なく私のことを心配してくれた。どうしてか胸がじくじくと痛んだ。
 自分の中では、ずいぶんと長い距離を歩いてきたつもりだった。母との別離で、ふさぎ込んでいたあの頃から。死にものぐるいで這い上がってきたつもりだった。食事を取れるようになった。勉強ができるようになった。人と話せるようになった……私の中では、どれも荷が重く、激しいエネルギーを必要とするものだった。
 山白女学院に入学して一年、私にとってエネルギーに満ちた日々だった。数年の不登校から……久しぶりの登校で。父以外の人と接するのも、何年ぶりかわからないほどで。
 ……私はまだ、それでも、無気力に見えてしまうらしい。
 まだ、ぽっかりと空いた心の穴を、埋めきれずにいるのだろうか。
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