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飛ぶ鳥の影

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: 志の字
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2話

 山白女学院の学費は決して安くない。山奥にあるとはいえ、全寮制であるところも大きい。ただ学費がかさむ一番の要因は、教育の質だ。
 今はもう見なくなった、ミッション系の女学院。宗教色が強く、神学や日舞など一般の学校では行われない科目も多い。必修科目の教育に関しても手を抜かないので、必然的に授業数は多くなる。
 運動コートなどの設備は一通り揃っているものの、朝から晩まで授業が詰まっているため、部活動はあまり盛んではない。
 偏差値が極端に高いわけでもないのに、県内でも5本指に入る入試倍率の高さを誇る。
 入学してからというもの、あれほど頭を悩ませていた頭痛も治まりかけていた。
展示室には、『空』を描いた彼女の作品が5つ展示されていた。その中に『空』はなかったが、どれも風景画で、モチーフはそれぞれ異なるものの、キャンバスの中にはいずれも同じ青色の空が描かれていた。
私は展示室に通い詰めて絵を眺めた。
『空』を初めて見たときに胸を揺さぶった、あの得体のしれない衝動が、少しだけ落ち着くような気がした。まとわり付く頭痛と一緒に、荷を下ろすように軽くなっていた。
 そして……私は彼女に会うことが出来た。
 雨宮日鞠。クラスは違ったものの、彼女は確かに同じ学校に通っていた。
 彼女はまるで日本人形のようだった。長い黒髪と、切りそろえられた前髪。小さな背丈と薄い腰。身なりは手入れされた人形のように整えられていて、近づくのをためらうほどに触れがたく感じた。
 私は、進路を委ねるまでに強く憧れ、会いたいと願っていた彼女に、一度も話しかけることがないまま一年を過ごした。彼女は触れがたい存在だった。元から臆病で引っ込み思案の私には、とうてい近づくことは出来なかった。
 競争の激しい山白女学院において、彼女は運動を除いたあらゆる科目で上位の成績を残していた。学院で彼女の描いた『空』を知らないものはいない。今もなお、美術界で活躍を続けている。私のような一般生徒からすれば、彼女は高嶺の花どころか、手の届かない星のようなものだった。
 満足だった。彼女の作品を間近で見ることが出来て、遠目からでも彼女の姿を視界に収めることが出来て。
 なにより……彼女と同じ世界で生きていることが、嬉しかった。どれほど違う存在であろうと、同級生であるという一点だけは疑いようがない。
 憧れは、胸の奥にしまって。不自由はしないと思った。生きる力はすでにもらっていたから。それだけでもう、私は何もいらなかった。
 ……からっぽの心を、満たしてくれた。それだけで。
 彼女と話すことができるのを、期待していなかったわけではない。心の片隅で、ひょっとしたらと望んでいたけれど。
 年度の変わり目。
 その「ひょっとしたら」は、思っていたよりもずっと現実的なものになった。
 2年次、クラス替え。仲のいいルームメイトの高原千恵と離れたくないなと、ぼんやり思いながら、新しいクラス名簿を確認していた。
 結塚悠――私の名前が乗った2年2組の名簿に、雨宮日鞠の名が、そこにあった。
「悠、見つけた? ついにクラス、離れちゃったね……」
 千恵が隣で落ち込んだ声を話しかけてくる。私は名簿を手にしたまま呆然として、答えることが出来なかった。
 本当にこの名簿は正しいのだろうか。疑ってしまうほど、実感がない。
「悠? どうしたの?」
 千恵が私が手に持っている名簿を覗き込む。
「あ……雨宮さん」
 千恵はすぐに、私の様子が変わった理由に感づいたようだった。一年間、ルームメイトをやっていた。長い付き合いというのもあるが、私がどんな理由で山白女学院に入ったかを、彼女はよく知っている。
 自分の内側だけで抱えておくには、重たすぎる思いだったから。外に漏らしてしまうことは何度もあった。
 もちろん、私が展示室に通い詰めて彼女の絵を眺めていることも知られていた。たまにからかわれてしまうが、なんて返したら良いかわからない。ただ恥ずかしくてごまかしていた。
「千恵ちゃん。わたしたち、ルームメイトなんだから。離れても大丈夫だよ」
「うー。でも寂しいものは寂しいの。一緒に授業受けたかったよ」
「そうだねー、寂しくなるね」
「でも、よかったよ、悠が2組で。ね?」千恵は私を励ますように言った。
「……うん。ありがとう」
「あれ。あんまり嬉しくない……?」
 千恵がくりくりとした丸い目で、気遣わしげに私の顔を覗いてくる。ようやくになって生返事になっていたことに気づいた。
「う、ううん。突然のことで驚いちゃって。なんだか、実感がないかも……」
「あはは。そんなに固くなってたら仲良くなれないよ」
 自分の中に嬉しいという感情があるはずなのに、捉えることが出来ない。嬉しくないはずがない。嬉しいという感情が、どこかにあるはず。
 でも、それ以上に……いま感じているのは。
「なんだか、ちょっと緊張してるのかも……」
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