オーガー 1
鋼を、雷光と変えて相対する者に互いに放つ。
切り結ばれる剣戟の音が、ともすれば何かの楽音であるかのように周囲に響く。時に水平に、時に垂直に。様々な緩急と軌道を持って、相対する者を打ち据えるために振るわれていた。
鋼は、剣を模してはいるが刃の部分は潰されている。
ゆえに、不殺の得物。稽古に使われる模造刀である。
だが、模造刀とはいえ材質は鋼。打ち所が悪ければ、真の切り合いと同様に絶命することもありえよう。
つまり稽古ではあっても、ひとつ間違えば死の危険が付きまとう剣呑な立ち合いでもある。
そんな剣呑な試合を繰り広げているのは、若干10代半ばといった少年たちだった。
「また力をつけたな、フリオ……!」
「お前もなっ……」
剣と剣を交えての力比べを展開しつつ、互いが互いの少年に言い合った。
“湖の王国”と謳われるフィン王国、その首都は貴族の屋敷の一角での光景であった。
しばらく互角のつばぜり合いを行っていたが、やがてフリオと呼ばれた少年が少しずつ押されていた。
このまま押し合いをしていては不利と、フリオは力の方向をわずかに逸らし、相手の少年の体勢を崩そうと試みる。
しかし相対する少年もさるもので、それをある程度予測していたらしく完全には成功しなかった。
わずかにしか作れなかった隙を、しかしフリオ少年は最大限に生かすべく、手に持った剣だけではなく足も用いた。
体勢が悪く力はあまり込められなかったが、足払いに注意が逸れたことでようやく離れるだけの間を見つける。フリオは追撃を受けないように注意しながら相手と十分距離を取った。
互いに得物を握りなおし、仕切り直そうとゆっくり相手ににじり寄っていくと──
「兄さん! フリオニール!」
その声で、二人は弾かれたように再び距離を取り直し声が飛んできた方向へと顔を向ける。
「マリア」
自分をフルネームで呼んで来た相手の名を、フリオことフリオニールは呟く。そこには、紫がかった黒髪も艶やかな、アメジスト色の瞳を持つ少女が腰に両手を当て、上半身を突き出すように睨んできていた。
「また、そんな危険なもので稽古して……! 稽古の時は、木刀を使いなさいってお父さんからもきつく言われていたでしょう!?」
「そう怒るな、マリア。木刀での試合など緊張感がまるでない。俺やフリオのような実戦志向には、ぬるま湯に過ぎるというものだ」
「またそんなこと言って……! いい加減にしないと、お父さんに言いつけるんだから!」
「ほう、随分と優等生な発言だな、マリア。学問を放置し、いそいそと鹿狩りに出かける我が妹の言葉とも思えん」
マリアと呼ばれた紫黒髪の少女は、うっ、と言葉に詰まる。
「ど、どうしてそれを……」
「俺たちにバレていないとでも思っていたのか? お前がいない間、部屋にお前がいないことを親父たちから隠してきたのは俺たちだぞ」
「そ、そうなの、フリオニール?」
「……ああ」
君にとっては残念ながら、と付け加えつつ、フリオニールはバツが悪そうに頷いた。
それにしても、とフリオニールは思う。
このマリアという少女、肌は透き通るかのように白く、細面で、眉目は芸術品のように整っている。将来、大人の女として体の線がしっかりとすれば、大輪の花となって近隣諸侯たちの関心をすら惹きかねない。それほどの美貌の片鱗を見せ始めている。
だが、天は人に二物を与えなかった。
このマリアという少女、口を開けば嫌味に当てこすりに罵詈雑言。ひとつやられれば百倍にして恨みを返す、弓を持たせれば大人顔負けの剛の者。いつだったかこの3人で山岳に遊びに行った時、現れた魔物を弓で撃退せしめた時などは、彼女の兄、今しがた稽古をしていたレオンハルトと二人、本気で驚いたものだった。
黙って立っていれば佳人麗人の類にも含まれるだろうが、そうと分類するにはマリアはおてんばに過ぎた。もう数年以来、家族として過ごしてきたフリオニールから言わせてもらえば、彼女が誰かの妻となって家庭に入る光景など遙か地平の彼方にしか存在しない。
まったく惜しいものだ、と思いつつも、彼女が誰のものにもならず、いつまでも自分たちのおてんばな妹であるという将来も、なんとなく微笑ましくも思えるフリオニールだった。
「……ちょっと! 聞いてるの、フリオニール!」
「……あ、え? 何だい、マリア」
「このこと黙っているから、私が秘密で狩りに出かけているのも秘密よ?」
「なんだ、そんなことか。元から話す気なんかないよ」
「じゃ、商談成立ね! ……裏切ったら酷いわよ?」
「ああ。マリアを裏切るなんて、鋼で殴りあうより恐ろしい」
「……どういう意味よ?」
フリオニールは苦笑しつつ、自分を睨んでくるマリアにそう返事をする。今、自分が考えていたことがマリアに知られたらどうなるんだろうな、などと思いながら。
「ところでマリア、お前わざわざ俺たちの稽古に水を指しに来ただけでもないだろう。用件はなんだ」
「あ、それ! それなの!」
兄レオンハルトの質問に、マリアは興奮したように口調を高めた。
「山に! 山に、オーガーが現れたの! それを知らせに戻ってきたの!」
「オーガー?」
レオンハルトが、秀麗に形の整った眉をひそめる。それも当然だな、とフリオニールも訝しげな顔をした。
オーガーとは人間を食らう巨人で、人間よりも遙かに体格と膂力に優れている。戦闘訓練を受けていない一般の人間が出会ったら、天災にも等しい存在だった。
「このフィン近郊の山岳に、そんな剣呑な種のモンスターが出たとは聞いたことがないが。フリオはあるか?」
「いや、ないな」
「だから慌てて戻ってきたんじゃない! どこかから移動してきたんだったら、まだ誰も知らなくて、対処も考えられてないってことでしょう!? 早く何とかしないと!」
本当にオーガーであったかどうかはともかく、少なくともマリアがオーガーと見まごうくらいの何かと遭遇したのは間違いないようだった。陶磁器のごとき白い顔を朱に染めるくらい興奮醒めやらぬその様子が、それを物語っている。
「しかしな……」
レオンハルトは、その秀麗な顔に呆れとも疲れとも言えぬ表情を浮かべる。
「分かっているのか、マリア? それを大人に伝えれば、お前が黙って野山に出かけて狩りに行っていたことをバラすのと同義だぞ」
「……あ」
勢い込んで話していたマリアが、兄の一言で口を紡ぐ。そこまで考えていなかったことは明白であった。
「で、でも……もし私の見たのが本当に人間に多大な害を及ぼすモンスターなら、そんなことは言っていられないじゃない」
「その通りだ」
それまで黙ってレオンハルト兄妹の話を聞いていたフリオニールが、マリアの意見に賛成した。
「マリアが伝えるのが拙いというなら、俺が見たってことにしてもいい。とにかく本当にオーガーなんていたなら、とても放ってはおけない。義父さんたちに知らせよう」
真剣に頷くレオンハルトと安堵の表情で頷くマリアを見て、フリオニールは模造刀を壁に寄せ掛け家の中に向けて歩き出した。
「……それで」
及び腰になり、一歩後ろに仰け反りつつも、マリアはフリオニールとレオンハルトを睨みつけて叫んだ。
「どうしてそのオーガーがここにいるの!?」
「いや、だからオーガーなんかじゃないんだって」
フリオニールは頭を掻きながら、オーガー──否、マリアからオーガー呼ばわりされた後方の人物との出会いを語り出した。
あれからフリオニールら3人は、目撃したのがマリアだという点だけフリオニールだと捏造し、山でオーガーを目撃した旨を養父・クラウスに報告した。はたしてフリオニールたちの話を、養父は戯れや勘違いで済まそうとせず「確認の必要あり」と判断した。
確認は早い方がいい。そうと決まったなら、と養父は兵士の詰め所に駆け込み事情を話した。
しかし、事の始終を偽りなく伝えたら(とクラウスは思っている)、詰め所の兵士たちはフリオニールたちの話を子供の戯れか勘違いと判断し、動こうとしなかった。
こんなことなら私が見たことにすれば良かった、と悔しがったクラウスを見て、フリオニールは胸を熱くした。そんなことをして、間違っていたら義父自身の名誉に関わってくるだろう。それなのにこの人は、未だ若輩の自分たちの言葉を疑わず、多少の方便を交えてでも調べた方が良いと判断してくれている。そこまで自分たちを信用してくれているのだ、と。
しかし、義父の親族愛に感動するのは後でも出来る。フリオニールはクラウスに自分たちだけで確認しに行き、それで本当に確認できたら改めて義父の名で詰め所に報告しましょう、と提案した。
クラウスはそのフリオニールの言を是とし、自分とフリオニール、そしてレオンハルトの3人で山林に向かうことにした。本当の目撃者であるマリアも当然同行したがったが、クラウスは頑としてマリアの同行は許可しなかった。クラウスは善良だが前時代的な人間で、たとえマリアがどれだけ弓術を嗜もうと、女子たるものが荒事に関わることを良しとしなかったからである。仕方がないので、フリオニールがマリアから詳しい話を聞き、クラウスとレオンハルトを案内することにしたのだった。
そうして3人が山に入り、フリオニールが発見したことになっているオーガーを目撃した地点にやってきた。
そして──いた。そこに、マリアがオーガーと称した存在が。
身の丈は、ヘタをすると2メートル以上あるかも知れない。その長身を包む筋肉は巌のごとく筋骨隆々、腕だけで細身の女の胴回りよりも太そうな分厚さであった。
これは確かに、マリアが遠目からオーガーだと認識しても仕方がない。後で聞いた話によると、フリオニールのみならずクラウスもレオンハルトもそう思ったという。
だが、とフリオニールは思う。だが、彼はモンスターなどではない。容姿を視認できるまで近づいて、フリオニールは確信した。
彼がモンスターであったなら、あんなに穏やかな顔をしている筈はない。フリオニールたち3人が見たものは、巌のごとき巨躯を誇る男が、手に肩に野山の小動物たちを戯れさせて穏やかに微笑む光景であったから。
クラウスは、事の次第の滑稽さに失笑しつつ男の前に歩み出て話しかけた。その日の良好な天気と、男が何をしているのかを尋ねるために。
しかしそのクラウスの問いに対する、男からの返事はなかった。
いや、あったのだが、フリオニールたちには理解できなかったというのが正しい。男からの返事は、鳥や犬といった小動物たちの鳴き声のようなものとして帰ってきたからだ。
最初、フリオニールは男がふざけているのかと思った。だが、どうも男はそうすることでしか自分の意思を伝えられないのではないか、ということが分かった。
そうと分かって見てみると、男が着ている大きさのまるであっていないボロボロの服も、それはフィン周辺で幼子に着せることが好まれるものだということに気が付いた。
そうして3人で相談した結果、彼は押さない頃にこの山の奥に捨てられ、そのまま野の獣にでも育てられた野生児なのではないか──という結論にたどり着いた。
その結論から、放って置けば遅かれ早かれまたフリオニールのように彼をモンスターと誤認する者が現れかねない。こうして出会ったのも何かの縁、モンスターと見間違った無礼もあるし、ここはひとつ自分たちの家に一度連れ帰ろうじゃないか──
「……ということになって、こうして連れて帰ってきたんだ」
フリオニールから説明を聞いたマリアは、呆れた顔をして怒鳴った。
「これが保護しなきゃいけないような人間!?」
2メートルを超える巨漢を前に、マリアの言葉は確かに頷けるものがあったかも知れない。この男ならば、大抵の危険はその膂力で退けることができるだろう。事実、フリオニールたちの洞察が正しければ、そうして幼児の頃から今日まで野山の中を生き延びてきたのであろうから。
だが──
「マリア、彼は喋れない。人の言葉を話せないんだ」
「……それはさっき聞いたけど」
「人の言葉が喋れないということは、彼は自分が人間であるということも喋れないということだ。俺たちは途中で気づいたから良かったけど、もしそのままにして別の人間がまた彼をモンスターだと誤解したら? そして俺たちの時と違い、最後までその誤解が解けなかったら? 彼は、遅かれ早かれモンスターとして退治されてしまう」
「……………」
「そんな悲しいことを放置できるような義父さんじゃないことは、俺なんかよりマリアの方がよく知ってるだろ?」
「……分かったわよ」
小声で、しかしハッキリとマリアは言った。
「しばらくは、うちに住むのを認める。でも、ずっとはイヤだからね! そんな野生児、さっさと詰め所か何かに保護してもらうんだから、フリオニールも兄さんも父さんに変なこと言わないでよ!」
「おい、マリア──」
フリオニールが呼びかけたが、マリアはそれに答えずさっさと家の中に入っていってしまった。
「困ったな。すぐに納得してくれると思ってたんだけど」
フリオニールが困惑していると、
「なに、いきなりのことで混乱しているだけだ。あれは親父に似て根が善良だ、すぐに分かってくれるさ」
とレオンハルトが苦笑しつつフォローした。
ああそうだな、とフリオニールも、マリアが消えた方向を見た後、後方の穏やかな眼差しの巨漢の方を振り向いて答えた。
しかしレオンハルトの予想に反して、マリアは頑としてガイのことを理解しようとしなかった。
野生児はガイという名を与えられ、家族の一員となったのだが、フリオニールに引き続き、二人目の養子として迎えられたガイにマリアは沈黙を持って抗議の意を示したのである。
マリアたちの家は裕福で、扶養家族が1人くらい増えても家計が揺るぐようなことはない。さらに彼女たちの父クラウスは人が良かった。街中ではなく野山に捨てられたというのであれば、その誕生が祝福されたものである筈がないことは容易に想像できる。ならば、と自分の元に引き取り、実子2人とフリオニールと共に育て、それまで注がれたことのないであろう人間としての愛情を与えようとしたのである。
マリアの家は大きく、少なくとも養子が一人増えるくらいで物理的に狭くなるようなものではなかった。
しかしマリアは、ガイが家族に増えたことで閉塞感を感じていた。物理的なものではなく、精神的なもので。
ガイはまず、言葉を覚えるところから始めなければならなかった。それに食事の作法、人間社会の常識等、教えなければならないことが山積みで、周囲からの情が必要であること、極めて大であった。そのために、それまで一番幼かったために一身に注がれていた両親や兄、フリオニールたちの関心が、自分からガイに移ってしまったからだった。
だが、それをもって彼女が狭量であると断じるのはこの場合、酷な話であったろう。彼女は今年で11歳を迎える少女であり、まだまだ親や周囲の愛情が恋しい年頃だったのだから。
そんな状態だったため、マリアは日ごと月ごとに、不満と寂寥感を募らせていった。心楽しまぬ日々を過ごしていたある日、ついにその積もり積もった不満が破裂する。
ガイが、武に対して天賦の才を有していたことが事の切っ掛けだった。
フリオニールとレオンハルトの二人が、クラウスから剣の指導を受けていた時、たまたま近くにガイもいた。クラウスが戯れにガイへ稽古用の剣を渡し、手合わせをしてみたところ、その天賦が判明したのである。
その恵まれた体格に備わった天然剛力は得物を振るう際に大きな威力が乗ることを約束するものであったし、何よりフィジカル的なことの覚えがとても早い。クラウスが1を教えると、ガイは10にも20にも理解してそれを動きに取り入れた。この野生児を育てた自然は、同時に計り知れない素質を持つ戦士を育てていたのだ。
クラウスがガイを賞賛し、フリオニールとレオンハルトも実際に手合わせしてガイを褒めた。そんな光景を遠くで眺めていたマリアはいよいよ面白くなく、「だったら弓のような高度な武器はどうかしら」と、自分の得意な得物で勝負を挑んだ。
マリアもまた、女子が触るものではないとクラウスに叱られながらも幼少の頃から弓を嗜んできた。いかに天賦が備わっているとは言え、さすがにその技量の高さは1回2回触った程度で埋められるものではない。的当てでマリアはガイに完勝し、久々に気分が高揚した。これで父や兄、何よりフリオニールに褒めてもらえる、と。
だが、実際に賞賛されたのはガイだった。
マリアもまた年に相応しからぬ技量の持ち主だが、それは父や兄たちには公然のことで、いまさら驚くには値しない。だがガイは、そんなマリアの弓術に敗れはしたものの善戦した。3人の賞賛がガイに集ったのは、自然の成り行きだった。
だが、自分が勝ったのに賞賛がガイの方にいけば、それまでにも面白くない思いをさせられ続けたマリアが黙っていられよう筈がない。
「どうして勝った私よりそんな野山のゴリラが賞賛されなきゃいけないのよっ!」
と大きな声で怒鳴ると、マリアは近くの木に持っていた弓を投げつけてそのまま家を飛び出してしまった。
どこに向かう当てがあったわけでもないマリアは、知らず知らずの内にいつも鹿を狩ったりしている野山の方へと足を運んでいた。今にして思えば、どうしてオーガーがいるなんて話をしてしまったんだろうという後悔の念がそうさせてしまったのかも知れない、とマリアは思った。そんな話をしなければガイが家にやってくることもなく、皆の関心が自分から離れることもなかったのに、と。
目を涙になり切らぬ水分で濡らしつつ、ふて腐れたマリアはそうして野山の奥へ奥へと突き進んで行った。
切り結ばれる剣戟の音が、ともすれば何かの楽音であるかのように周囲に響く。時に水平に、時に垂直に。様々な緩急と軌道を持って、相対する者を打ち据えるために振るわれていた。
鋼は、剣を模してはいるが刃の部分は潰されている。
ゆえに、不殺の得物。稽古に使われる模造刀である。
だが、模造刀とはいえ材質は鋼。打ち所が悪ければ、真の切り合いと同様に絶命することもありえよう。
つまり稽古ではあっても、ひとつ間違えば死の危険が付きまとう剣呑な立ち合いでもある。
そんな剣呑な試合を繰り広げているのは、若干10代半ばといった少年たちだった。
「また力をつけたな、フリオ……!」
「お前もなっ……」
剣と剣を交えての力比べを展開しつつ、互いが互いの少年に言い合った。
“湖の王国”と謳われるフィン王国、その首都は貴族の屋敷の一角での光景であった。
しばらく互角のつばぜり合いを行っていたが、やがてフリオと呼ばれた少年が少しずつ押されていた。
このまま押し合いをしていては不利と、フリオは力の方向をわずかに逸らし、相手の少年の体勢を崩そうと試みる。
しかし相対する少年もさるもので、それをある程度予測していたらしく完全には成功しなかった。
わずかにしか作れなかった隙を、しかしフリオ少年は最大限に生かすべく、手に持った剣だけではなく足も用いた。
体勢が悪く力はあまり込められなかったが、足払いに注意が逸れたことでようやく離れるだけの間を見つける。フリオは追撃を受けないように注意しながら相手と十分距離を取った。
互いに得物を握りなおし、仕切り直そうとゆっくり相手ににじり寄っていくと──
「兄さん! フリオニール!」
その声で、二人は弾かれたように再び距離を取り直し声が飛んできた方向へと顔を向ける。
「マリア」
自分をフルネームで呼んで来た相手の名を、フリオことフリオニールは呟く。そこには、紫がかった黒髪も艶やかな、アメジスト色の瞳を持つ少女が腰に両手を当て、上半身を突き出すように睨んできていた。
「また、そんな危険なもので稽古して……! 稽古の時は、木刀を使いなさいってお父さんからもきつく言われていたでしょう!?」
「そう怒るな、マリア。木刀での試合など緊張感がまるでない。俺やフリオのような実戦志向には、ぬるま湯に過ぎるというものだ」
「またそんなこと言って……! いい加減にしないと、お父さんに言いつけるんだから!」
「ほう、随分と優等生な発言だな、マリア。学問を放置し、いそいそと鹿狩りに出かける我が妹の言葉とも思えん」
マリアと呼ばれた紫黒髪の少女は、うっ、と言葉に詰まる。
「ど、どうしてそれを……」
「俺たちにバレていないとでも思っていたのか? お前がいない間、部屋にお前がいないことを親父たちから隠してきたのは俺たちだぞ」
「そ、そうなの、フリオニール?」
「……ああ」
君にとっては残念ながら、と付け加えつつ、フリオニールはバツが悪そうに頷いた。
それにしても、とフリオニールは思う。
このマリアという少女、肌は透き通るかのように白く、細面で、眉目は芸術品のように整っている。将来、大人の女として体の線がしっかりとすれば、大輪の花となって近隣諸侯たちの関心をすら惹きかねない。それほどの美貌の片鱗を見せ始めている。
だが、天は人に二物を与えなかった。
このマリアという少女、口を開けば嫌味に当てこすりに罵詈雑言。ひとつやられれば百倍にして恨みを返す、弓を持たせれば大人顔負けの剛の者。いつだったかこの3人で山岳に遊びに行った時、現れた魔物を弓で撃退せしめた時などは、彼女の兄、今しがた稽古をしていたレオンハルトと二人、本気で驚いたものだった。
黙って立っていれば佳人麗人の類にも含まれるだろうが、そうと分類するにはマリアはおてんばに過ぎた。もう数年以来、家族として過ごしてきたフリオニールから言わせてもらえば、彼女が誰かの妻となって家庭に入る光景など遙か地平の彼方にしか存在しない。
まったく惜しいものだ、と思いつつも、彼女が誰のものにもならず、いつまでも自分たちのおてんばな妹であるという将来も、なんとなく微笑ましくも思えるフリオニールだった。
「……ちょっと! 聞いてるの、フリオニール!」
「……あ、え? 何だい、マリア」
「このこと黙っているから、私が秘密で狩りに出かけているのも秘密よ?」
「なんだ、そんなことか。元から話す気なんかないよ」
「じゃ、商談成立ね! ……裏切ったら酷いわよ?」
「ああ。マリアを裏切るなんて、鋼で殴りあうより恐ろしい」
「……どういう意味よ?」
フリオニールは苦笑しつつ、自分を睨んでくるマリアにそう返事をする。今、自分が考えていたことがマリアに知られたらどうなるんだろうな、などと思いながら。
「ところでマリア、お前わざわざ俺たちの稽古に水を指しに来ただけでもないだろう。用件はなんだ」
「あ、それ! それなの!」
兄レオンハルトの質問に、マリアは興奮したように口調を高めた。
「山に! 山に、オーガーが現れたの! それを知らせに戻ってきたの!」
「オーガー?」
レオンハルトが、秀麗に形の整った眉をひそめる。それも当然だな、とフリオニールも訝しげな顔をした。
オーガーとは人間を食らう巨人で、人間よりも遙かに体格と膂力に優れている。戦闘訓練を受けていない一般の人間が出会ったら、天災にも等しい存在だった。
「このフィン近郊の山岳に、そんな剣呑な種のモンスターが出たとは聞いたことがないが。フリオはあるか?」
「いや、ないな」
「だから慌てて戻ってきたんじゃない! どこかから移動してきたんだったら、まだ誰も知らなくて、対処も考えられてないってことでしょう!? 早く何とかしないと!」
本当にオーガーであったかどうかはともかく、少なくともマリアがオーガーと見まごうくらいの何かと遭遇したのは間違いないようだった。陶磁器のごとき白い顔を朱に染めるくらい興奮醒めやらぬその様子が、それを物語っている。
「しかしな……」
レオンハルトは、その秀麗な顔に呆れとも疲れとも言えぬ表情を浮かべる。
「分かっているのか、マリア? それを大人に伝えれば、お前が黙って野山に出かけて狩りに行っていたことをバラすのと同義だぞ」
「……あ」
勢い込んで話していたマリアが、兄の一言で口を紡ぐ。そこまで考えていなかったことは明白であった。
「で、でも……もし私の見たのが本当に人間に多大な害を及ぼすモンスターなら、そんなことは言っていられないじゃない」
「その通りだ」
それまで黙ってレオンハルト兄妹の話を聞いていたフリオニールが、マリアの意見に賛成した。
「マリアが伝えるのが拙いというなら、俺が見たってことにしてもいい。とにかく本当にオーガーなんていたなら、とても放ってはおけない。義父さんたちに知らせよう」
真剣に頷くレオンハルトと安堵の表情で頷くマリアを見て、フリオニールは模造刀を壁に寄せ掛け家の中に向けて歩き出した。
「……それで」
及び腰になり、一歩後ろに仰け反りつつも、マリアはフリオニールとレオンハルトを睨みつけて叫んだ。
「どうしてそのオーガーがここにいるの!?」
「いや、だからオーガーなんかじゃないんだって」
フリオニールは頭を掻きながら、オーガー──否、マリアからオーガー呼ばわりされた後方の人物との出会いを語り出した。
あれからフリオニールら3人は、目撃したのがマリアだという点だけフリオニールだと捏造し、山でオーガーを目撃した旨を養父・クラウスに報告した。はたしてフリオニールたちの話を、養父は戯れや勘違いで済まそうとせず「確認の必要あり」と判断した。
確認は早い方がいい。そうと決まったなら、と養父は兵士の詰め所に駆け込み事情を話した。
しかし、事の始終を偽りなく伝えたら(とクラウスは思っている)、詰め所の兵士たちはフリオニールたちの話を子供の戯れか勘違いと判断し、動こうとしなかった。
こんなことなら私が見たことにすれば良かった、と悔しがったクラウスを見て、フリオニールは胸を熱くした。そんなことをして、間違っていたら義父自身の名誉に関わってくるだろう。それなのにこの人は、未だ若輩の自分たちの言葉を疑わず、多少の方便を交えてでも調べた方が良いと判断してくれている。そこまで自分たちを信用してくれているのだ、と。
しかし、義父の親族愛に感動するのは後でも出来る。フリオニールはクラウスに自分たちだけで確認しに行き、それで本当に確認できたら改めて義父の名で詰め所に報告しましょう、と提案した。
クラウスはそのフリオニールの言を是とし、自分とフリオニール、そしてレオンハルトの3人で山林に向かうことにした。本当の目撃者であるマリアも当然同行したがったが、クラウスは頑としてマリアの同行は許可しなかった。クラウスは善良だが前時代的な人間で、たとえマリアがどれだけ弓術を嗜もうと、女子たるものが荒事に関わることを良しとしなかったからである。仕方がないので、フリオニールがマリアから詳しい話を聞き、クラウスとレオンハルトを案内することにしたのだった。
そうして3人が山に入り、フリオニールが発見したことになっているオーガーを目撃した地点にやってきた。
そして──いた。そこに、マリアがオーガーと称した存在が。
身の丈は、ヘタをすると2メートル以上あるかも知れない。その長身を包む筋肉は巌のごとく筋骨隆々、腕だけで細身の女の胴回りよりも太そうな分厚さであった。
これは確かに、マリアが遠目からオーガーだと認識しても仕方がない。後で聞いた話によると、フリオニールのみならずクラウスもレオンハルトもそう思ったという。
だが、とフリオニールは思う。だが、彼はモンスターなどではない。容姿を視認できるまで近づいて、フリオニールは確信した。
彼がモンスターであったなら、あんなに穏やかな顔をしている筈はない。フリオニールたち3人が見たものは、巌のごとき巨躯を誇る男が、手に肩に野山の小動物たちを戯れさせて穏やかに微笑む光景であったから。
クラウスは、事の次第の滑稽さに失笑しつつ男の前に歩み出て話しかけた。その日の良好な天気と、男が何をしているのかを尋ねるために。
しかしそのクラウスの問いに対する、男からの返事はなかった。
いや、あったのだが、フリオニールたちには理解できなかったというのが正しい。男からの返事は、鳥や犬といった小動物たちの鳴き声のようなものとして帰ってきたからだ。
最初、フリオニールは男がふざけているのかと思った。だが、どうも男はそうすることでしか自分の意思を伝えられないのではないか、ということが分かった。
そうと分かって見てみると、男が着ている大きさのまるであっていないボロボロの服も、それはフィン周辺で幼子に着せることが好まれるものだということに気が付いた。
そうして3人で相談した結果、彼は押さない頃にこの山の奥に捨てられ、そのまま野の獣にでも育てられた野生児なのではないか──という結論にたどり着いた。
その結論から、放って置けば遅かれ早かれまたフリオニールのように彼をモンスターと誤認する者が現れかねない。こうして出会ったのも何かの縁、モンスターと見間違った無礼もあるし、ここはひとつ自分たちの家に一度連れ帰ろうじゃないか──
「……ということになって、こうして連れて帰ってきたんだ」
フリオニールから説明を聞いたマリアは、呆れた顔をして怒鳴った。
「これが保護しなきゃいけないような人間!?」
2メートルを超える巨漢を前に、マリアの言葉は確かに頷けるものがあったかも知れない。この男ならば、大抵の危険はその膂力で退けることができるだろう。事実、フリオニールたちの洞察が正しければ、そうして幼児の頃から今日まで野山の中を生き延びてきたのであろうから。
だが──
「マリア、彼は喋れない。人の言葉を話せないんだ」
「……それはさっき聞いたけど」
「人の言葉が喋れないということは、彼は自分が人間であるということも喋れないということだ。俺たちは途中で気づいたから良かったけど、もしそのままにして別の人間がまた彼をモンスターだと誤解したら? そして俺たちの時と違い、最後までその誤解が解けなかったら? 彼は、遅かれ早かれモンスターとして退治されてしまう」
「……………」
「そんな悲しいことを放置できるような義父さんじゃないことは、俺なんかよりマリアの方がよく知ってるだろ?」
「……分かったわよ」
小声で、しかしハッキリとマリアは言った。
「しばらくは、うちに住むのを認める。でも、ずっとはイヤだからね! そんな野生児、さっさと詰め所か何かに保護してもらうんだから、フリオニールも兄さんも父さんに変なこと言わないでよ!」
「おい、マリア──」
フリオニールが呼びかけたが、マリアはそれに答えずさっさと家の中に入っていってしまった。
「困ったな。すぐに納得してくれると思ってたんだけど」
フリオニールが困惑していると、
「なに、いきなりのことで混乱しているだけだ。あれは親父に似て根が善良だ、すぐに分かってくれるさ」
とレオンハルトが苦笑しつつフォローした。
ああそうだな、とフリオニールも、マリアが消えた方向を見た後、後方の穏やかな眼差しの巨漢の方を振り向いて答えた。
しかしレオンハルトの予想に反して、マリアは頑としてガイのことを理解しようとしなかった。
野生児はガイという名を与えられ、家族の一員となったのだが、フリオニールに引き続き、二人目の養子として迎えられたガイにマリアは沈黙を持って抗議の意を示したのである。
マリアたちの家は裕福で、扶養家族が1人くらい増えても家計が揺るぐようなことはない。さらに彼女たちの父クラウスは人が良かった。街中ではなく野山に捨てられたというのであれば、その誕生が祝福されたものである筈がないことは容易に想像できる。ならば、と自分の元に引き取り、実子2人とフリオニールと共に育て、それまで注がれたことのないであろう人間としての愛情を与えようとしたのである。
マリアの家は大きく、少なくとも養子が一人増えるくらいで物理的に狭くなるようなものではなかった。
しかしマリアは、ガイが家族に増えたことで閉塞感を感じていた。物理的なものではなく、精神的なもので。
ガイはまず、言葉を覚えるところから始めなければならなかった。それに食事の作法、人間社会の常識等、教えなければならないことが山積みで、周囲からの情が必要であること、極めて大であった。そのために、それまで一番幼かったために一身に注がれていた両親や兄、フリオニールたちの関心が、自分からガイに移ってしまったからだった。
だが、それをもって彼女が狭量であると断じるのはこの場合、酷な話であったろう。彼女は今年で11歳を迎える少女であり、まだまだ親や周囲の愛情が恋しい年頃だったのだから。
そんな状態だったため、マリアは日ごと月ごとに、不満と寂寥感を募らせていった。心楽しまぬ日々を過ごしていたある日、ついにその積もり積もった不満が破裂する。
ガイが、武に対して天賦の才を有していたことが事の切っ掛けだった。
フリオニールとレオンハルトの二人が、クラウスから剣の指導を受けていた時、たまたま近くにガイもいた。クラウスが戯れにガイへ稽古用の剣を渡し、手合わせをしてみたところ、その天賦が判明したのである。
その恵まれた体格に備わった天然剛力は得物を振るう際に大きな威力が乗ることを約束するものであったし、何よりフィジカル的なことの覚えがとても早い。クラウスが1を教えると、ガイは10にも20にも理解してそれを動きに取り入れた。この野生児を育てた自然は、同時に計り知れない素質を持つ戦士を育てていたのだ。
クラウスがガイを賞賛し、フリオニールとレオンハルトも実際に手合わせしてガイを褒めた。そんな光景を遠くで眺めていたマリアはいよいよ面白くなく、「だったら弓のような高度な武器はどうかしら」と、自分の得意な得物で勝負を挑んだ。
マリアもまた、女子が触るものではないとクラウスに叱られながらも幼少の頃から弓を嗜んできた。いかに天賦が備わっているとは言え、さすがにその技量の高さは1回2回触った程度で埋められるものではない。的当てでマリアはガイに完勝し、久々に気分が高揚した。これで父や兄、何よりフリオニールに褒めてもらえる、と。
だが、実際に賞賛されたのはガイだった。
マリアもまた年に相応しからぬ技量の持ち主だが、それは父や兄たちには公然のことで、いまさら驚くには値しない。だがガイは、そんなマリアの弓術に敗れはしたものの善戦した。3人の賞賛がガイに集ったのは、自然の成り行きだった。
だが、自分が勝ったのに賞賛がガイの方にいけば、それまでにも面白くない思いをさせられ続けたマリアが黙っていられよう筈がない。
「どうして勝った私よりそんな野山のゴリラが賞賛されなきゃいけないのよっ!」
と大きな声で怒鳴ると、マリアは近くの木に持っていた弓を投げつけてそのまま家を飛び出してしまった。
どこに向かう当てがあったわけでもないマリアは、知らず知らずの内にいつも鹿を狩ったりしている野山の方へと足を運んでいた。今にして思えば、どうしてオーガーがいるなんて話をしてしまったんだろうという後悔の念がそうさせてしまったのかも知れない、とマリアは思った。そんな話をしなければガイが家にやってくることもなく、皆の関心が自分から離れることもなかったのに、と。
目を涙になり切らぬ水分で濡らしつつ、ふて腐れたマリアはそうして野山の奥へ奥へと突き進んで行った。
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