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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第7話

 直次が河原の水に手を入れると、冷たかった。その水を稽古着の脇や自分の頭につけた。水を汗に見せかける。ごく自然にトレーニングをサボっては、こういうふうに水で汗をかいたとごまかすことがたびたびあったので、慣れたものだ。
 河原から川沿いの道に出た。雨上がりの路面に、水たまりがいくつもある。元々、高下駄はぬかるんだ道を歩くのに重宝された履物だ。足が濡れるようなことはない。目の前の水たまりにバナナ状の犬の糞があり、直次は一本歯の高下駄で器用に回避した。
 だが、急接近してきた通行車がうんこ混じりの水たまりの水を飛ばし、直次の裾を汚して走り去っていった。
 直次は、濡れて汚れた袴を見て、がっくりと肩を落とした。そのままとぼとぼと歩きだした。ランニングもせずに。
「もうどうせ、うちの古武術道場は終わりだ……」

 元大相撲の関取の俵山老人の移乗介助の最中に腰痛で倒れた要を、医者に診せた後、寿美花は、医務室前の殺風景な廊下にある長椅子に疲れて座っていた。しばらくすると、施設長である母が駆けつけてきた。
「寿美花……要さんの容態はどうだったの?」
 母の声は細く、そして震えていた。
「あっ、ママ……要さんは……腰痛……ぎっくり腰だって……だから……」
「そう……。じゃあ、当分安静にしてないと駄目ね……」
 暗い表情で、母は頷いた。ぎっくり腰では今日明日にも現場復帰というわけにはいかない。二週間くらいは覚悟しておいたほうがいいだろう。
「元関取までいった俵山さんですもんね。いくらベテランの要さんといっても大変よねぇ」
 ベッドから車椅子、もしくはその逆を行う移乗介助は、介護職員の腰に大きな負担がかかる。移乗介助の方法は状況にもよるが、例えば、膝を落として前屈みになり、正面から抱き合うような形になって、背中に腕を回して持ち上げるようにして移乗させたりするのだ。
 一昨年前に脳出血によって半身不随となり、左半身が麻痺している俵山を動かすのは相当大変なはずだった。
「苑長先生……要さんは大丈夫かのう?」
 心配そうに顔を見せたのは、留吉老人だった。介護職員にお願いして車椅子を押してもらい、急いで駆けつけてきたらしく、まだその手には手品に使うシルクハットがあった。
 ほぼ同時に、事務室からやってきた事務長が、母に囁くように言った。
「施設長……少しお話があります」
 両方から話しかけられて、混乱した様子の母を見て、留吉老人が引いてくれた。母は事務長のほうを向いた。
「ああ、事務長……要さんが腰を痛めたそうなの。すぐにお休みをあげて……あと前に腰を痛めた介護職員の方がいたでしょ? その方と要さんの分のお見舞いの品を持っていきたいのだけど、何がいいかしら?」
「お見舞いなんて後にして下さいっ! それどころじゃないでしょう!」
 お嬢さま育ちでまったく経営に向かない施設長に腹を立てるようにして、事務長はシフト表を突き出す。
「見て下さい! 元々余裕のないシフトだったのが、要さんが抜けるとなると、もうめちゃくちゃです! 特養は臨時休業なんてできないんですよっ?」
 「特養」とは、特別養護老人ホームの略称である。略さないと長いので、職員などはたいていそう呼ぶ。この施設「特別養護老人ホーム悠寿美苑」も「特養」である。
 特養は、公的老人ホームの一種であり、一般的に「老人ホーム」と言った場合、多くの人がイメージするのがこの施設である。老人ホームにはじつにさまざまな種類が存在する。
 特養では、入居者たちはここを終の住処として、一生の最後を過ごす場合がほとんどだ。生活の拠点となる施設である。当然、入居者は常にいる以上、「明日は老人ホームを休業します」というわけにはいかない。それどころか住んでいるということは、少数とはいえ夜勤を配置し、二十四時間三百六十五日働く必要がある。
 寿美花は、廊下の陰からこちらをちらちらと見ている視線に気づいた。三、四人の女性介護職員たちだ。手には退職届と書かれた封筒を持った者さえいる。
 ますます厳しくなる現場の状況から逃げ出したいと考えているらしい。
 視線が合うと、彼女らは去っていった。
 思わずため息が漏れる。
 ここで話すといろいろと悪影響が出ると思った事務長が、母と事務室のほうへ歩いていった。母は見るからに顔色が悪く、今にも倒れそうだ。これで施設長まで倒れたら、本当にこの老人ホームは終わりかもしれない。
「理事長に相談してみます……」
 そう呟く母の声が聞こえたが、ついこの間も腰痛で欠員が出た際相談したばかりで、その時「その件について前向きに検討します。ただし、まずは現場で対処してみて下さい」とすげなく言われている。厳しくなる一方の仕事をやめていきたがる部下は多く、上司も頼りにならない。
「なかなか根が深そうぢゃな、この問題は……」
 留吉老人が気遣うように話しかけてきた。寿美花は医務室前の長椅子に深く腰かけたままうなだれていた。
「そもそも介護職員の離職率は高いからのう。なんせ離職者のうち三年未満でやめる人間が、八割ほどもいるという職種ぢゃ。理由はいろいろあるぢゃろうが、わしの見たところ介護の仕事の大きな問題は二つぢゃな……職場の人間関係という精神的なものと、腰痛などの肉体的なものぢゃ」
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