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みんなのSUMIKA

ジャンル: 現実世界(恋愛) 作者: そばかす
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第5話

声のした方向には、母屋と道場を繋ぐ渡り廊下がある。
 奥から歩いてやって来たのは、古びた稽古衣を着た、短髪に薄い胸をした男のようにしか見えない四十歳くらいの女だった。
「また、やめちまったぜ、お袋……これで残りひとりだ。……お袋――師範、これからいったいどうするつもりだっ?」
 直次と呼ばれた少年は、女のことをお袋から師範と呼び直し、吐き捨てるように訊ねた。そして、持っていた木札を、母に向かって鋭く投げる。
 母は、投げつけられた木札をなんなく受け取り、そこに書かれた名前を確かめた。
「……そうか」
 一瞬の沈黙の後、母は頷いた。小柄ながら、どこか巌を思わせる堅物の彼女の表情は変わらない。
「そうか……って、それだけかよ!」
 直次が激高する。
「もうお袋と兄貴と俺とアビーだけだ! 家族をのぞけば風姿流の門下生は外国人しかいない! こんなことで古武術道場なんて言えるのかっ?」
「そのウォーターズはどうした?」
「今日は学校はないはずだからバイトだろっ。遅れてくるはずさ」
「そうか。……では予定通り、私たちは太刀奪(たちと)りの稽古から始めよう」
 太刀奪り――打ち込まれる真剣の日本刀をかわす技という時代錯誤な技術の稽古をすると聞いて、直次はますます苦い顔をした。
「待てよ……もういいんじゃないか?」
「いい、とは」
「この風姿流の古武術道場はもう終わりだ! 江戸時代以前から伝わる伝統ある流派だろうと時代の流れには逆らえない」
 母は、まっすぐ直次に向かって歩いてきた。怒鳴ったため顔をやや赤くしている直次は、何か反論でもされるかとかすかに身構えたが、母はそのまま通りすぎた。
 直次の背後には、名札掛けと、その隣に稽古道具置き場がある。彼女はどうやらそこに用があるらしい。
 壁には壁掛け用の刀掛台に木刀が並び、傘立てのような物に、竹刀よりやや太い、黒い長剣が収まっている。
 エアーポンプで空気を入れて膨らませた黒い剣、エアーソフト剣である。
 太刀奪りの稽古は、防具をつけずに行われるため、打つ側の手加減をなくす目的でその剣が使われている。
 母はやめていった門下生の名札を壁際の床に置き、エアーソフト剣を手に取った。
 直次は背後を振り返り、母が口論を無視して稽古を始めようとしているのを知り、母の方を向いて怒鳴った。
「また道場の運営資金を借りるために親戚中に頭を下げて来たんだろっ! いいかげん古武術なんていう古い技術に執着するのをやめろよ! 親戚達にもご近所にも恥ずかしいだろっ! 古武術はもう廃れた必要のない技術なんだ!」
 黒いエアーソフト剣を持ったまま首だけで後ろを振り返った母の視線とまともに目が合い、直次はばつが悪そうな顔をした。唇を噛みしめ、口を開きかけ、結局黙りこんだ。
母はエアーソフト剣をまた元に戻して直次をきちんと見た。
「お前の言うこともわかる。だが、古武術には意味がある」
 確信を込めた声で、歴史ある道場の師範は言った。
「そんなものあるわけないっ! 柔道や剣道なんかの現代武道ならともかく、古武術になんて! 柔道ならオリンピックを目指せる。剣道なら学校で習うこともある。だが、古武術はどうだっ?」
「誤解している。古武術は技術だ。技術を伝えることに意味はある」
「だったら兄貴――師範代に伝えればいいだろっ! 一門下生に過ぎない俺なんかじゃなく!」
 兄のことを口に出した途端、空気が重くなった。直次だけがそう思ったのかもしれない。
(優秀な兄貴がいれば、俺なんか不要なんだろっ?)
 そう口には出さず母を睨みつける。
 兄の日向直一は、直次とは違って体格にも才能にも恵まれた。今は世界武者修行の旅に出かけている。兄は天才で努力家だった。直次が劣等感を覚えるのも無理はない。
 古武術という廃れていく技術を覚えさせられ、しかも、その技術においてさえ直次のずっと上を行く兄がいる。
 不要な技術と、必要とされない自分を同列に並べて考え、直次は古武術も自分も大嫌いだった。
(誰からも必要とされていない自分が、同じく誰からも必要とされていない古武術を学ぶなんてお笑い種だ……)
 無言で、だからこそ、深刻に対立する親子――。
「シショー! ドージョーヤブリだってばよ!」
 妙な口調の女性外国人の声がした。アビゲイル・ウォーターズだとすぐにわかる。「師匠! 道場破りだ!」と叫んでいるらしい。
「違うわよっ!」
 すぐさま別の女の声がした。こちらには直次は聞き覚えはなかった。来客らしい。
 母は、直次との口論を中止して、声のした母屋の玄関へ向かう。直次も行くことにした。渡り廊下を歩き、玄関へ着くまでの間、ふたりは何も会話を交わさなかった。
 玄関には、アビゲイルの他に、もうひとり女が立っていた。ビシッとスーツを着て、腕を組み、こちらを値踏みするような顔をして見ている。気の強そうな女だった。
 その前に立つアビゲイルは、大柄なカナダ人女性で、直次や母と同じく稽古衣を着ている。母とは真逆で、大きな胸をしているため遠目にも性別を間違えることはない。短めのくすんだ金色の巻き毛に、愛嬌のある青い瞳をしているが、今はなぜか警戒しているらしく、やや険しい顔をして来客を見つめている。
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